こころあそびの記

日常に小さな感動を

和菓子好き

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 お店やさんには、にこやかな女将さんが不可欠です。

 家の近くに和菓子屋さんがありまして、そこの女将さんがそれはそれはお商売上手というか気の利くお人でした。
 小柄で笑顔と大きな瞳をくるくるさせて、このお店はこの人でもっていると誰もが思っていたことでしょう。
 大学生だった頃、駅からストーカーらしき人に付きまとわれたことがありました。怖くて明かりの付いていたこのお店に駆け込こだところ、怯えている私をひと息休ませたあとで、家まで送ってくださったことを今も忘れません。
 こんなに親切で気働きのできる方でしたのに、先年亡くなられてお店はさびしくなりました。

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 その代わりではありませんが、このところ勤務先の近所に和菓子屋さんを見つけて、時々買いに行きます。ご夫婦で切り盛りされている小さなお店です。
 そこの女将さんが、先の方と似て働き者で愛想良しですから、おやつは何にしようかなと思ったら、あの人懐っこさに誘われるように自然に足が向いてしまいます。
 今日は、店先に「厄除け饅頭のご予約は早めに」と貼り出されていました。
 和菓子は季節を教える役目もあります。春夏秋冬。それぞれの季節のお菓子が日本の風習を残してくれています。
 紅白の上用饅頭の上に豆を乗せたお饅頭が、貼り出されていた「厄除け饅頭」でした。
 節分だから、豆で厄除け。豆まきをしない人にも一粒の豆が厄除けをしてくれるかわいらしいお饅頭でした。 
 あまり見かけないお饅頭ですから、家族の人数分を包んでもらっている間、前からお尋ねしたかったことを思い切って質問してみました。

 「奥さんは商家のお生まれですか」
 「いえいえ、私は普通のサラリーマンの家庭で育ちました」
 「そうなんですか?」
 「初めはいやでした」
 「ということは、結婚されたときすでにお店をなさっていたのですか?」
 「いいえ、主人は高野山へ修行に行ってました」
 「ええっ!お寺さんですか?」
 「いえいえ、高野山にはお菓子屋さんがずらっとならんでいるところがあるんです。お寺には常にお客さんがあるし、修学旅行生も来るでしょう」
 「需要があるのですね。知らなかった」
 「その中の、あるお店で修行したのです」

 高野山のお山の上にお饅頭屋さんがそんなに並んでいることは知りませんでした。
 和菓子作りは「~屋」とか「~庵」で修行するか、もしくは専門学校かと思っていましたら、高野山という道があったのですね。
 店内には、作りたての和菓子が所狭しと並んでいます。種類が多くて、どれにしようかなと迷うほどあることが客には何よりもうれしいことです。しかも、低価格で、できたてほやほや。

 「厄除け饅頭、おいしかったよ!」。
 その家族の声が聞けたから、また、買いに行ってしまいそう。次は、どんなお饅頭が待ってるかな?

人籟、地籟、天籟

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 今日は寒に入って九日目です。

 仏にも寒九の水をたてまつる  森澄雄

 寒さ厳しい今日の水を汲んで、寒餅を搗けばカビも生えない美味しいお餅になります。薬を飲むのも、煎じるのもこのお水がよろしいようです。

 大鍋にいっぱい汲んで、豚のスペアリブを放り込んでコトコトとスープを作りました。
 身体を温める生姜とネギはもちろんのこと、中国の友人に教えてもらった八角花椒を入れました。温める作用のある桂枝も入れたかったのですが、スーパーでは見あたらず今回は諦めました。
 部屋は暖かくなるし、食べて美味しい一挙両得のスープ作りでした。

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 夕方、散歩に出たら自由学園の坂道に不凍剤を撒いておられました。
 「明日の朝の準備ですか?」
 「今晩は大変なようですから」
 本当に明朝は転ばないよう、気をつけましょう。

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 耳元で風が鳴ります。ゴーゴーと聞こえます。
 風に煽られた鳥がバランスを崩しているところを、今日は何度か見ました。それでも、鳥は落ちてはきませんでした。偉いなあ。私は小鳥になれません。

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 『荘子』の内篇「斉物論、真宰」に人籟、地籟、天籟という言葉が出てきます。
 人籟とは人が吹く笛の音、地籟とは風の音。ならば、天籟とはなんぞやと弟子が先生に尋ねる話です。
 なぜ、そんな話を思い出したかというと、今日の風がまさしく地籟のようだったからです。今まで、静かだった山の木立がざわめき立って激しく揺れる様が、今日の風でした。今夜は、夜通し雨戸がガタガタ音することでしょう。
 もとい。天籟とは、人籟を人籟として聞き、地籟を地籟として聞くことであると先生は応えます。
 すべての音は自分が聞きたいように聞いていることは、日常経験するところです。つまり、誰かが鳴らしているわけではないという深い観察があります。
 そこには、荘子ならではの、思想が込められています。天とはあるがままということであり分別を超えてこそ、自由な境地に遊ぶことができるということです。
 そして、「真宰」とは、この世を動かすものとでも言える大きな大きなもの。人はそれが何かを知りたがります。しかし、その思いが昨日を悔い、明日を煩うことになります。
 自分を忘れて自然と一つになって、今日を生ききることが大切と考えた荘子が好きです。

幸せに過ごすために

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 お正月飾りを付けた玄関に小雪が舞っています。
 お飾りをすでに外したお家もありますが、我が家は小正月の15日にとんど焼きに出すつもりです。
 早まらないで良かったことが二つあります。
 ひとつは、雪に濯がれる玄関を美しいなぁと眺められたことです。どか雪でご苦労されている地方には申し訳ないことですが、雪が舞う中で見た玄関飾り周辺はいつもと何かが違いました。凛とした雰囲気を感じさせる雪は、天からの便り。天上の美しさを彷彿とさせます。
 大晦日の静けさの中、深い雪に埋もれたお寺に通じる階段を上る初詣の人々。「ゆく年来る年」で観る参拝者の一人に、いつかはなってみたいと思っています。
 二つめは、雀たちがバタバタとこのお飾りに付いてるお米を食べに来てくれたことです。毎年、玄関が騒がしくなる日があります。なにごとかと出てみたら、稲穂が落ちていて、雀たちの仕業と分かります。
 生きるために必死な小鳥たちの姿に年神様もにっこりお許し下さっていることでしょう。

 ところで、近頃、散歩道にしている川にサギとカモの数が増えているように見えるのですが・・

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 この写真のアオサギの鋭い目は何を狙っているのでしょう。ちょこまか動かない、堂々とした佇まいです。
 鷺はアオサギのほかにも、コサギなど、見た目も大きさも違うから、いく種類かいることが分かります。

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 でも、鴨は茶色一色なのでどれも同じと思っていました。
 そしたら、先日、こんなきれいな鴨を見つけてしまいました。
 知らなかった!知らないことを知ることは、どんな些細なことでも、うれしくて感動します。
 いつも私が見ていた茶色い鴨の姿を”エクリプス“というそうです。
 エクリプスとは日蝕や月蝕などを指す天文用語で”蝕“を意味する英単語。遡るとギリシャ語で姿を消すという意味らしいです。
 茶色ばかりだと思っていた鴨たちは、異性に選ばれる必要がない季節だから、外敵から身を守るために茶色に変身して越冬していたのです。
 ところが、恋の季節、繁殖の季節が近づくと、途端に個性を発揮し始めます。それぞれの種のユニークなカラーが見られる春になるのが楽しみです。

 最後に、「幸せに過ごす方法」を一つ。
 寝る前に今日見つけた小さな幸せを書き出すことが有効だそうです。
 毎日くだくだとつまらない発見をして、それを喜びごとにしている私は今日も恥ずかしながら幸せに暮らせています。ありがとうございます。

「八腊粥」

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 そういえば、この写真のお粥、去年は近くの中華料理屋さんに頼んで作ってもらったことを思い出しました。あれから、もう一年が巡ったことに、言われるまで気づきもしませんでした。
 
 昨日は旧暦で12月8日でした。
 
 中国では、この日を一年の区切りのとしています。
 まず、一つ歳をとる日。日本で数え年をお正月から数え始めるのと同じですね。
 それから、言うまでもなく寒中ですから、ここが寒さの底だよ。その先には春が待っている。春になるということが地球上のすべての人間の共通の希望なら、それが平和の礎になりはしないかと、小さな願いを抱きます。
 ほら、みてごらん。チューリップだって、桜だって、この寒さに耐えてこそ春になったら花開くんだよ。それとなく置かれたこんな小さな隣人に自然の仕組みの妙が隠されていることに気づくことでいのちは華やぎます。
 一日一日、日脚が伸びて陽光が明るさを増してくる。冬がいやなわけでは全くないのに、どこか期待している自分がいます。

 春を心待ちにされているのは、中国の方も同じです。 
 寒い北方ならなおさらでしょう。
 この日に温かいお粥を食べる風習があるのも、寒さを乗り切るためです。
 その友人が言うには、日本はどうして豆が売ってないの?中国にはたくさんの種類の豆があるよ。と。
 厄払いのお粥ですから、赤色です。クコ、ナツメ、小豆などのほか、いろんな豆を入れて、臙脂色のお粥を炊き上げます。
 それらが手に入らないから、写真のような缶入り「八宝粥」が中華材料のお店に売り出されるそうです。
 日本では、七草粥。中国では「八腊粥」または「八宝粥」。
 きっと、その思いは同じなのではないでしょうか。
 身体に溜まった老廃物を排出して、きれいな身体になって無病息災を祈ります。


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 荊楚歳時記によれば、旧暦12月8日を臘日といい、鼓を鳴らして春草を呼び、金剛力士を作って疫を払い沐浴して罪を払う日と書かれています。
 「臘」とは猟のことで、狩猟して先祖をお祭りする意。
 また、「八腊粥」の「腊」の字は12月を指して、その年の農業のお終いを饗し、しばらくの安息を表します。
 これらをみるにつけ、中国人は季節のめぐりを大切にしているように感じます。裏返せば、それは大陸の自然の厳しさを表しているのかもしれません。自然を抜きには語れない国土に住まう人々の知恵は頑丈です。
 
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 ところで、今日は日本では、「鏡開き」です。
 週末は小正月ですから、お正月気分も今週まで。寒さの中であれやこれやと忙しくしているうちに、着実に春が近づいてきます。

 春が来る?そりゃ当たり前よ。順番やもん。と言わずに、ちょっと目を凝らしてみると至る所に春の萌芽が見られます。どんな小さな発見でもウキウキしてきます。それが今日一日を元気に過ごす秘訣なのです。

 〈追記〉

 「八宝粥」は高級食材が入っています
 霊芝、ゆり根、氷砂糖、松の実、などが入って甘くカ  
 ロリーも高いので、病人や老人によいそうです
 「八腊粥」は家庭にある雑穀などを用います
 クコ、なつめ、しょうが、コウリャン、あわなどを入  
 れて作ります

 以上、只今仕入れた情報です!

いつまで?なんのために?

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 朝の散歩しながら考えるには重いテーマでした。
 朝刊の「朝の詩」で83歳男性が訴えられていたのです。「ホントにこれだけの薬を死ぬまで飲まなきゃならないのかね」と。
 これは、毎日、患者さんに処方箋通りに投薬している私の中に常にあるテーマでもあります。
 
 「早期発見早期治療」「ニキビは皮膚科へ」「脱毛症のお悩みは」と、医療が宣伝をするようになって、人は自分のいのちを他人である医師に全面的に丸投げすることが正しいのだと洗脳されてしまいました。
 服薬さえすれば生まれた時のようなまっさらな身体になれるなんて努々期待されておられないとは思うのですが。
 「先生。この薬いつまで飲まんとだめですか?止めたいんです」と訴えて了解してくれる医師は少ないはずです。その人の身体の中を血液検査の数値で診るように教育されたのですから、検査結果から指導されるのは当たり前です。
 
 『70歳が老化の分かれ道』(和田秀樹著)の中で、和田先生は「70歳になったら、相性のよいドクターをさがすべし」と書いておられます。
 全く同感です。毎月、叱られないかな、怒らせたらどうしようとドキドキしながら通えば、寿命も縮まります。
 ゆったりと和やかに相談に乗ってくださる先生を選ぶべきです。
 でも、そこに保険医療の難しさがあります。病名をつけずに薬の処方もせずに相談だけしていたら、お医者さんの収入はなくなってしまうのです。
 厚生省、医師会、製薬会社の三方よしで医療は回るように出来ています。
 
 その輪から抜け出せばよいだけですが、その決断には、覚悟が要ります。なにも、医療のご厄介にはならんぞと頑なにならなくても、必要な時に必要な分だけ受けたらよいのですが、なかなかハードルが高いように見受けられます。
 しかし、自分のいのちは誰のものでもなく、自分のたった一つのいのちです。老齢になるまで、沢山の他者に貢献してきたのです。最後くらいは自分のことをいちばんに考えてもよいのではないでしょうか。
 一人生まれて一人で死んでいく。この孤独な旅を共にしてくれる者はいないのですから。

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 最後に、年明けに来られたら患者さんのお話から。
 89歳の腰の曲がったお婆ちゃんが98歳のお爺ちゃんのお世話をされています。
 今、話題の老々介護です。
 このお婆ちゃん、気難しくて人に弱音を決して吐かない方でした。去年までは。
 ところが、先日来られた時に、ポロッと恨み節。
 なんでも、暮れにお爺さんが寄りかかってきて、支えきれずに共倒れしそうになった話を初めてなさいました。誰かに聞いて欲しかったのでしょうね。
 限界を感じられた様子です。
 彼女が受け取るお爺ちゃんの薬の量が半端ないのです。それを仕訳して毎回飲ませるお婆ちゃんの根気良さは表彰状ものてす。
 98歳になったとき、あなたは薬を何種類飲めますか?
 何のために飲みますか?

 いつ、薬を止めるか。もしあなたがいのち丸投げ型なら、今から考えておくべき大切な事です。

初春の光の中で眠る山

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 寒い朝。うちのわんこが、じっとこっちを覗き込んで、行く?と誘ってきます。
 マイナス1度ですよ。それでも行きますか?
 健気な表情に負けて重い腰を上げ始めると、やったぁやったぁ!とぐるぐるそわそわする仕草が、またかわいいくて散歩に出発です。

 今朝は箕面大滝を目指してlet's go!
 
 寒中だからこそできること。
 寒餅。寒さらし。
 新潟県魚沼市はお米のブランドとしてつとに有名ですが、越後上布の里であることを知りました。
 この時期、雪の上に布を晒すと汚れが消えるといいます。そうするものだと受け継がれてきた先人の知恵。実は科学で説明のつくものだったのです。
 雪に太陽が当たると布と雪の間の水蒸気がオゾンを発生させて漂白させるそうです。
 そんな説明を誰から教えられたのでもなく、極寒の中で雪の上に広げてきた人間と自然の関係は素敵です。
 同じように、和紙をすく過程でも、楮の寒ざらし
 金沢でも、川で友禅の寒ざらし
 どれもこれも、手がちぎれるくらいの冷たい作業から生まれる美しく貴重なものです。

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 そんな寒中の滝のしぶきに身を晒して、身体も寒ざらしです。
 
 帰り道。男性2人が崖の上の方に向けて、双眼鏡を覗き込んでいるところに遭遇しました。
 若いほうの方が「あの日当たりのよい崖のあたりですよ」と初老の男性に教えておられます。
 ここは、聞いておこうと「何がいるのですか?」と尋ねると「ミソサザイなど4、5種類はいますよ」と応えてくださいました。
 それを聞いて、そうか、さっき上ってくるときに見た、雀みたいだけど雀じゃなさそうと感じた鳥が「ミソサザイ」だったのだと、また一つ物知りになれました。
 「ここで先日は鹿も見ましたよ」と男性。
 大きないのちも、野鳥のような小さないのちも、私たちのすぐ近くに生きていることを実感できる寒中ウォーキングでした。

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 箕面山では「神変大菩薩」と唱えられている役行者が修業されたころは狭く厳しい谷だったことでしょう。その後、滝道は整備されて今やサンダルで歩いけるようになりました。それでも、水の音や鳥の声や山上から差し込んでしく光が役行者さんが見た光景だと思えば元気が湧いてくる気がします。
 人間の力くらいではビクともしないから、自然は永遠に崇められる存在です。

日脚伸ぶ

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 昔、茶の間の窓は細かく切り込みが入った飾りガラスが嵌められていました。すぐ外には、大きな枇杷の木があって、毎日、ヒヨやモズが遊びに来ていました。
 掘りこたつに足を突っ込んで、窓に葉陰が揺れるのを感じながら、うつらうつらと小鳥の声を聞くともなく聞く時間は、今から思うと至福の時でした。

 仕事場で何がさみしいって、日暮れが早くなることほど気持ちが萎えることはありません。
 働く時間は同じなのに、なぜか、暮れる時間が早くなるとさびしくなるのです。
 でも、反対に窓の外に明るさが増してくると、俄然、元気が出てきます。縛られていた縄がほどけていく感覚です。

 若いときには気に留めることさえなかった、こんなことも何十回と四季を生きて初めて分かるようになるとは鈍感なことです。
 それでいいのですよね。若いときには若い楽しみ、年寄りにはそれに応じた喜びが与えられていることに感謝です。

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 今、まさに寒中最中となりました。
 中国の友人が届けてくれたこの小寒カード。
 小寒の由来が書いてあります。
 今から、一年で一番寒い季節ですが、それだけではないのです。
 冬至を過ぎて、一陽来復。陽光は日増しに明るさを取り戻しつつあります。
 寒中は次にやってくる春という希望の萌芽を感じる季節でもあるのです。
 この中国の友人は河北省奉天出身です。満州といわれた地域でしょうか。それはそれは、寒い地方です。
 その土地では「冬、病気で伏せっていた人も、春が来たら治る」と信じて、凍る冬を過ごしておられるそうです。
 寒ければ寒いほど、春到来への思いは強く、人の心情は希望に膨らむことが察せられます。

 どんなに寒い日でも、昨日よりも明るくなっています。
 その明るさに気付いて、窓に映る日の光を感じたら、縮こまった心が解放されていく気がします。