こころあそびの記

日常に小さな感動を

“こわがらなくてもいい”という名言

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 一世代若い方から相談を受けました。
「近頃、母がまだら呆け状態になりました。辻褄が合わない話をしてきたら注意して訂正したほうがよいのでしょうか?」と。
 老年になる親を見守る多くの人が経験する惑いではないでしょうか?まだまだ惚けて欲しくないから、つい、そんなはずないでしょうと言ってしまう子の心配は痛いほどわかります。
 現代は、医学の発達という名目で病気でないものも、人と違うというだけで病名をつけるという哀しい時代になりました。
 惚けていくことなど、一昔前までは神の恩寵と考えて周りも、年をとるとはそういうことと受け入れていたと思うのです。
 ところが、認知症という病名ができたために物忘れを異常に怖がる風潮が出来上がってしまったのではないでしょうか。
 その親子には、宮沢賢治の”こわがらなくてもよい“という言葉を贈ってあげたいです。人は神様の思し召し通りに生き、旅立ってゆくもの。でも、いつの日か、人生は自分が決めた道だったと気づくかもしれません。だとしたら、明日の煩いに費やすのは止めて、自分らしく生ききる今日一日でありたいと思うのです。
 相談内容の裏に、私はむしろ羨ましく感じたことがありました。それは、お母様との関係性です。
 なんでも言える関係だったからこそ、それはダメでしょうと注意できるのではないでしょうか。私の母は口ごたえというものを決して許さない厳格な人でしたから、親に注意することなど有り得ないことでした。
 長幼の序など消滅しかけている時代に育つ人々を羨ましく思いつつ、どんな状態になっても受け入れる受容という力を試されているのだよと言ってしまいそうになるのを胸に納めたことでした。