こころあそびの記

日常に小さな感動を

「感謝」

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 幼な子は誰かに何かをもらったら「ありがとうと言いなさい」と母から教えられます。
 この時、子供はうれしい時には「ありがとう」と言うんだと覚えます。相手の方に「えらいね」とほめられる言葉なのだと学びます。
 少し大きくなってくると、親は「感謝しなさい」と頻繁に言うようになります。しかし、この時期の子供は反抗期真っ盛りなので、意味を考える余裕はありません。分かってるわ!とばかりに、その押し付けに刃向かって自己防衛に専心します。
 そして、いくつも人生の荒波を越えた日に至ってようやく「お陰様で」と手を合わせることができるようになるのではないでしょうか。
 一つずつ段階を踏んで感謝できる人になってゆくのですね。
 東北大震災から10年経ちました。被災された方々の目からその記憶を消すことは決してできません。それでも、前を向かれる皆様に頭が下がります。
 思えば、私たちの親世代や祖父母世代は戦争という形で焼け野原を経験しました。そして、「神も仏もあるものか」という恨みを越えて、何とか日本の復興を成し遂げてくれました。
 ところが不思議と東北大震災の被災者に恨み節は聞かれません。特に若者のインタビューが放送される度に、泣き言や不満の言葉がないことに驚かされます。それどころか、大勢の人の支援という恩に報いて「感謝」して、故郷を復興したいというばかりです。
 七十年前と違うのは何かしらと考えます。戦時中は物資の不足から奪い合いするなどして心が荒んでいました。“衣食足りて礼節を知る”が検証できるほど心が荒廃していたようです。。
 でも、今回の震災で被災した若者たちの心には大きさがあります。心が育っていたからこそ、あの惨状を乗り越えられたのだと頼もしく見ています。それは、東北の厳しい風土と関係があるとは、穿ちすぎでしょうか。
 昔、仙台を訪れたとき、宿の窓から見た東北の自然に奥深さを感じました。木霊の囁きか聞こえてきそうでした。
 「山川草木悉皆成仏」
 目に映るすべてのものに神様がいてくださるというところまで、若い彼らが「感謝」の階段を駆け上がった暁には、私達をも巻き込んでその高みに連れて行ってくれるような気がしています。楽しみです。