ビックリするようなことに、またまた遭遇しました。
上の写真をご覧下さい。何だと思いますか?
これは、キャベツの芯から発芽した幼葉なんです。
娘が、YouTubeに上げておられた方の真似をして、キャベツの芯を土に埋めて10日。もう、やっぱり無理やねと諦めたころになって、「お母さん、見て見て。めっちゃ可愛い」と報告がありました。
まさに、自家製iPS細胞です。芯の中に眠っている遺伝子が目覚めてなんとかいのちをつなごうとした結果、こんなに可愛らしい芽を吹いたのです。
植物が今世紀まで何臆年も生き抜くことができたのは、この人間にはない驚異的な生命力だったのですね。
トカゲの尻尾だって、キャベツだって再生できる。その事実が再生医療を生み、進化を続けています。ありがたいことです。
でも、忘れてならない視点は「生きたい。自分の力でなんとかして生きたい」と自分自身の思いがあるから生きているという事実です。
このことを、今朝の産経新聞の「古典個展」の中で加地伸行先生は『生命の本質』とおっしゃっていました。
いのちの本質は、「生きる」以上の目的はないと思います。
生きることを難しくしているのは、どう生きたいか、とか、このように生きましょうという、巷に溢れる情報なのかもしれないと思うことがあります。
私みたいに物を知らない人間には、難しいことは理解できませんが、少なくとも、生きることを踏み外すための情報は山ほどあることに注意しなくてはなりません。
灯台下暗し。周辺の景色ではなくて、先ず、存在するものは足下の”いのち”です。よく使われる“いのちあっての物種”、それは本当は最高の悟りなのだと思います。
修業してその真実に行き着く高僧もあれば、何も知らないけど念仏だけ唱えていのち輝く市井の人もいます。
どんな道を選んで真理に行き着くのも、それぞれの選択です。自分のいのちが生きていることに心から思いを致せる人ほど、修業中の悟りがより深くなりはしないかと無知な者なりに思っています。
誰しもが到達したいと願って行き着く先が、”いのちの根源“だとすると、遠回りする前に、まずは、自分のいのちが今日あることをちゃんと見て、感謝することではないかと、このキャベツの子を見ながら、考えさせられたことでした。