こころあそびの記

日常に小さな感動を

他人任せ

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 出勤途中で、田植えの準備をする耕運機を見かけました。水を引き入れた田んぼは、鳥たちの恰好の餌場になって、あぁ、今年も無事に始まったんだと胸が躍る朝でした。
 年々歳々、自然は同じ循環を繰り返しています。
 「音もなく香もなく常に天地は 
  書かざる経を繰り返しつつ」(二宮尊徳)
 尊徳翁が実感されたことが、いま現在も変わりないとはありがたいことです。
 いのちを大切に生きるということ。
 それは、何百万年前から大自然の一員としてこの地球に生きてきた人間の営みの中にヒントがあります。自然と共に生き抜いてきたという経験は大きなものです。
 先日の大雨の後、川の増水によって川底の草が哀れになぎ倒されていた中で、中洲に生えていたさほど大きくない木が何事も無かったようにびくともせずに立ち残っていました。
 根っこが土を抱く力はすごいなぁと思いました。そうなんですよね。根っこの働きは、養分や水分を採り入れるだけではなく、体を支えるという大切な働きがあったのです。その仕事を立派に果たした木の根っこを見ながら考えたことがあります。
 『方丈記』を書いた鴨長明が生きた時代は厄災が多かったといいます。だから、「ゆく川の流れはたえずして しかももとの水にあらず」という有名な文章ができたとは考えすぎでしょうか。
 川の流れは、人の世を表しているように思います。
 大騒ぎしているコロナやそれにまつわる人の動きに一喜一憂することはない、いずれ流れ去っていくという風に置き換えられはしませんか。
 コロナ政策が後手後手なのは、政治家や医者が悪いからだという他力本願が蔓延している現状を憂います。
 正体さえ分からないウイルスに誰が完璧な方策を打ち出せるでしょう。自分を守ってくれるのは、ワクチンではありません。自分のいのちです。
 人任せでなく、いのちを自分で守るということは、あの増水にもめげず中洲にすっくりと何があろうと立ち尽くす木々のいのちに学ぶことです。
 一人一人、今日も生かされているということは、いのちが大地深く根を張っているからだと思います。二宮尊徳翁や鴨長明などの先人の気づきを今こそ私達も学びたく思います。
 ゆく川の流ればかりに気を取られて、本当に大切な自分のいのちが忘れらているように思える今日この頃です。