老後はもう一度学生したいなぁと常々うそぶいていましたら、先日、何を勉強したいの?と訊かれました。果たしてこれ!というものがありません。困ってしまいました。
探求したいものがあるわけではないのです。ものを見るとき、もっと温かい心で見られるようになれたらいいなぁと思っています。
昔、なりたいものの一つにインタビュアーがありました。人の生き様を聞くのが好きでした。こんなに苦労されてきて、とにもかくにもここまで生きて来られたのだと知ることが、そのまま自分を励ましてくれていることに気づきます。誰かの生き様は別の誰かを生かすことになるということに、最高のロマンを感じるのです。
名インタビュアー、阿川佐和子さんみたいに聞き上手にはなれないけど、耳を傾けるとその人が語り始めます。その話の中から生きるためのヒントがポロッとこぼれ落ちて、自分の心が満たされる時の優しい感覚が好きです。
最近聞いた話。
二十歳過ぎたばかりの愛ちゃんは父方のおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしています。それはもう幼稚園に通っていた頃から始まっていました。
その頃、お父さんとお母さんが離婚してしまったからです。
そんな人は五万といることでしょうが、すごいなと思うのは、彼女の気質です。
しんどいことも、さびしかったこともいっぱいあったでしょうに、ケロッとしているという表現も当たらないほど、さっぱりしています。冷たいさっぱりじゃなくて、平常心なのです。隠していると言われれば、そうかもしれませんが、誰でも言いたくないことはあって当然です。「あげる」といわれたところだけもらえばよいのではないでしょうか。
おじいちゃんが朝ご飯におにぎりを作ってくれる、と言うので「おばあちゃんは?」と訊くと、「おばあちゃんは朝は忙しいんです」と言うのです。
朝早くから、子供たちが通るまでに通学路に立って、小学生の登校を見守ります。
「それ私もいつかやってみたい。健康にいいよね」と合いの手を挟む私。
「それが終わったら、お地蔵様を磨きに行きます」。
あれあれ?予想外のお働き。これこそ私の密かな期待どおりの進行です。
「毎朝、“愛ちゃんが今日も健康でありますように”とお祈りしてるらしいです」。そうなんだ。この子の素直さの出所がわかった気がしました。
コロナのワクチン注射を打つ前日には、「”明日、孫が注射します。どうか、守ってやってください“とお地蔵さんにお願いしてくれたみたいです」。
彼女の生まれ持った気質を歪めることのなかった、おばあちゃんの孫育て。嬉しくてジーンとしてしまいました。
息子の離婚はおばあちゃんにも打撃だったでしょうに、それを思いつめることなく、孫を慈しむことに全力投球したおばあちゃん。
二人に流れる同じ空気。
おばあちゃんから卒業しても、おばあちゃんは祈り続けて下さいますよ。ぜったい。
生きる目的は、何かを成すことではなく、どう生きたかにあると言われます。
秋元康さん風に言うなら「飛んだ距離を競うのではなく、どこをどう飛んだのか」ということでしょう。
どこをどう飛んだのかなど忘れてしまうほどに今日を生きること。守られて有ることを信じて感謝して毎日を生ききることが人生の要諦であると、愛ちゃんのおばあちゃんに教えてもらいました。
こんな話に元気をもらうのが私流人生の楽しみ方です。