こころあそびの記

日常に小さな感動を

雨の中のいのちに学ぶ

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 七十二候「梅子黄」。誰が命令したわけでもないのに、6月半ばをもって我が家の梅も色づき熟してきました。
 こんな梅の実のかわいい色合いを絵に表現できる人が羨ましい。黄緑色のお尻に紅を指している子もいて、これが描けたらどんなに楽しいだろうかと無念に思っています。
 
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 それにしても、今年の自然は生き生きしているように思いませんか。紫陽花の当たり年という方もあります。花々が、我慢を強いられている私たちを励ましてくれているかのようです。
 娘が丹精こめて世話している小さな家庭菜園も、なぜか本人も驚くほどの出来映えです。
 桃太郎トマト、ミニトマト、ピーマン、トウモロコシ、ミニ冬瓜、ナス、水菜、おくら、サツマイモ、レタス・・まぁ、少量多品種にもほどがあります。
 それでも、どの子も立派に実ってくれるからお世話のしがいもあるというものです。
 「見てぇ、かわいいねん」といわせる野菜たち。娘の弾む声が毎日のように聞こえてきます。

 荘子の天道篇に“古人の糟粕”という段があります。斉の国の桓公が車輪作りの職人と話します。
 本を読んでいる桓公に、「物事を自分のものにするために、文字でわかるのでしょうか。私の技術を子供に伝えようにも、言葉ではうまく伝授できないから、こうやってこの年になっても仕事を続けているのです」と。
 古人の絞り粕を読むばかりの頭でっかちで、はたして身につくことはあるのかと職人は言いたいのでしょう。現代的にいえば「事件は現場で起こっている」というところでしょうか。
 人はみなそれぞれ生きる目的が違います。だから、どんな目的探索もありだと思います。違うと思えば、やり方を変更したらよいだけです。
 ただ、目的の違う一人一人に共通することがあります。生きているということ、健やかでありたいという願いは同じではないでしょうか。いかに生きるかは、究極的には生きているという実感を掴むための方法といえるかもしれません。
 生きている。それを全身全霊で語りかけているものは自然です。梅雨最中に健気にいのちを発散している植物たちに目を向けたら、その答えがもらえる気がします。