待ちに待ったコロナのワクチンがやっと接種できたというのに、浮かないお顔の老女。
「打ち終わったら、ドキドキ動悸が始まって・・」と、訴えられました。
「私が悪いんです。小さい時からそうなんです。弱いんです。」
お父様が戦死されたあと、母一人、子一人で生きるには厳しいことも多々あったことでしょう。まして、その子どもが少しでも他の子より弱いと思ったなら、庇うことばかりを優先してしまうお母様のお気持ちもよくわかります。
母親とは悲しいものです。こんなに弱いのは自分のせいではないかと、自分を責めてしまうのも母性のゆえです。
「母からいつも、あんたは弱い、弱いといわれ続けまして、こんなになってしまいました」とおっしゃる表情も儚げで、お声も震えている感じがありました。
人は不思議な生き物です。
あんたは弱いと言われれば、そうかなと思い込んで、成長してもその思いが断ち切れません。
反対に、あんたはきれいねと言われた女の子は、美しく育つし、君の手は器用やねと褒められた経験があれば、それが自分の強みになることだってあります。
人を育てるとは本当に難しいことです。
先の老女のご家庭のように、お母様にとっては子供を庇うことが、ある意味自分の生きる縁としている部分もおありだったと推測します。
成長過程で、その庇護を突き破ることは彼女にはできなかったようです。それほどに母の言葉は重いものです。
毎月楽しみにしている、NHK「テレビで中国語」の加藤徹先生のエッセイに「動いているのは、風でも幡でもない。あなたの心です」とありました。
人は周りに見えるもの、聞こえてくるものに心を奪われがちです。自分のアンテナに飛び込んでくるから仕方ありません。
でも、それらに疲れてどうしようもなくなったら、悪いですけど、ごめんなさいして目を閉じ、耳を塞いでしまう勇気も必要です。
その静かになった心に映るものは何ですか。自分自身ではないですか。本来の自分と向き合うことで、自分を取り返すという作業を優先してもバチは当たらないと思います。
巷に溢れる情報や他人のアドバイスは、風であり幡です。自分がどうしたいかは、心の奥深く眠ったふりをしている自分が知っています。
ワクチンがどうかとか、オリンピックがどうなるかとかは元気な人に任せて、あぁ自分がヤバイなと思ったら、全部シャットアウトしても許されます。
一人だけ他人と歩調が違うからと責められることはありません。
それが新しい社会のありよう、「誰一人見捨てない社会の構築」に通じているから大丈夫です。もっと、肩の力を抜いて気楽にいきましょう。
弱くではなく、しなやかに。