こころあそびの記

日常に小さな感動を

老年を生きる

f:id:snowrumirumi:20210705135107j:plain


 こんな相談を受けました。どこのお家にもありそうな一件です。
 「父がね、ふらつくというので、近所のお医者さんで診てもらったんです。特に異常は見当たらないという診断に本人は不満らしいんです。大丈夫だと言われたんだから大丈夫。と言い聞かせても、納得しないんです。私もセカンドオピニオンを頑なに止めて、本当に何かあってもイヤだし困っています。」
 別の病院で診てもらうべきか否か。
 お父様が行きたいとおっしゃるなら行かせてあげるべきじゃないかと思います。
 人は誰でも全ての選択権を持っていますから、たとえ家族であってもそれを阻止することは許されないことでありましょう。
 ご相談の方は五十代。お父様は八十代半ばです。
 私もこの年になって、ようやく分かることがあります。五十代には分からなかったことがあったと思うのです。
 例えば、まだ元気いっぱいの五十代なら「長くは生きたくないわ」と言ってた人が、八十代になると何故か生に固執するようになることを多々見かけます。
 死が現実のものとして近づくと、意識はせずとも逃げたくなるのが人間です。生あるものが輝いて見えるようになってきます。「ええなぁ」と柔らかな孫を抱きしめたり、「今年の桜は殊の外きれいや」というふうに。
 だからこそ、自分のしたいようにして、悔いを残さない選択をすべきだと思います。
 たとえ、別の病院に行ったために大きなリスクを負うことになったとしても、それが、この世のご縁というものだと決め込むことです。

f:id:snowrumirumi:20210705144536j:plain

 孔子の「七十にして心の欲する所に従えども矩をこえず」という言葉が好きです。
 若い時には、社会規範に従わざるを得ず、自分を抑えて生きてきたのですから、老年には縛りのない自由を謳歌してもよろしいのではないでしょうか。
 ただし、孔子の言葉の後半は考えるところです。心のままに自由であっても「矩をこえず」に生きるには、鍛錬が必要だと思いませんか。昨日、今日に完成できるとは思えません。自由に生きて周りに許される人になる。魅力ある憧れの人間像です。
 老後の生活といえば、直ぐに「お金」とか「人生設計」などが言われますが、本当に必要なのは、いのちに対する考え方を練ることではないでしょうか。
 あるいは、未来の世界ではいのちは大きく変質して、つまらないことを考えることが不要になるのでしょうか。でも、もしそんな世界になったら、人間は完全にロボットですね。
 今、二十一世紀にあっては、まだ、いのちがロボットコントロールされていないのですから、いのちの在り方を考えてもいいように思います。
 そういう私も八十代になったら、また、考えが変わっていたらごめんない。