「梅雨明け十日」と俳人、坪内稔典さんが書いてくださると、本当に梅雨が明けた!という実感が迫ってきます。
紹介されていた「窓をあければ空がくる」という新見南吉の詩をあじわいながらの、朝の散歩でした。
空が喜んでいる。みんなも喜んでいる。そう思いました。
我が家でも、待ってましたとばかり梅雨明け仕事開始です。
まずは塩漬け梅を引き上げて土用干し。それから、わんこのシャンプーです。
にわかに、みんなが活気づく夏本番が始まりました。
帰ってきて、テレビをつけたら、河野ワクチン担当大臣が橋下さんとお話されていたのでついつい見てしまいました。
橋下さんの見解は、いかにも弁護士らしいものでした。戦後の教育で個人主義が教え込まれたので、それはいいことだけれども、全体の為に動こうとしなくなっている若者たちがいる。
ワクチンで国を守ろうとするなら、半ば強制的にでも打つ必要があるのではないか、というご意見のようでした。
コロナを敵機襲来と考えておられるようにも見えました。コロナが敵かどうか、また、今から敵になっていくかどうかは誰にもわかりません。
ただ、いのちという視点はあるのか。抜け落ちてはいないかが気になりました。
今日、この青空を気持ちいいと感じているいのちが大切なのではないでしょうか。
その大切な命を守るために打つんやないか、といわれると反論の余地はないのですが、それでも、その前段のいのちに対する考えは各自で持つべきと考えます。
親からもらったいのちを全うする。それ以上でも未満でもありません。覚悟がいることです。
片や河野大臣は終始、冷静に言葉を選んでおられたようにお見受けしました。
「深謀遠慮」という『文選』を典拠とした言葉があります。前漢の賈誼(かぎ)は秦がなぜ十数年で滅びたのかを推量しています。
秦は法治国家を目指しました。法で人々を治めることは、一旦はうまくいくように見えても、置き去りになった民心は抑えきれなかったために瓦解してしまう運命を辿ります。
”遠い未来にまで考えを巡らし計画をする“という遠大な構想を、今、この予測のできない時代に考えられる人はいるのでしょうか。
秦の始皇帝の轍を踏まない為には、見える事象だけで語らないことだと思います。
そういう意味で、いけいけドンドンだった河野大臣のスローダウンに何かお考えがあってのことであればと、思い巡らせたことでした。