こころあそびの記

日常に小さな感動を

わたしのおばあちゃん

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 先日、「紙は神なり」と題しましたが、同じ読みの漢字には、近い意味があるといわれます。
 朝刊に「字が書かれている紙を踏んではいけないと、祖母が教えてくれた」と書いておられる方があったので、そうだ、私もそう言われ続けたなぁと懐かしくなりました。
 私の祖母はきっとこの方のお祖母さんと同じように、母を躾(しつけ)たことでしょう。その母が育てた私も、小さい頃から新聞や本を粗雑に扱うことは許されないことでした。
 理由の一つに、家業が紙を扱う仕事だったこともあると思います。
 どのような加工を施していたのか、母も祖母も逝ってしまった今となっては、想像がつきません。
 娘時代には、工場の手伝いをしたという母。「機械から出てくる紙を皺にならないように重ねるのは気を使う仕事だった」と、戦時中の手伝いがつらかったというよりも、娘時代の楽しさを思い出すように話していました。

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 祖母は、そんなこととは縁のない家庭で育ちました。
 父親が鉄道省に勤める技師だった関係で、転勤を経験しながら長女の役目を果たしました。“おしん”がそうであったように、ご多分に漏れず祖母も妹を負ぶって廊下で授業を聞いたといいます。
 だから、後々まで祖母は妹たちに愛される姉でありました。
 父親の勤務地は、私が知るかぎりでも、信長のお城で有名な清洲を振り出しに、山梨、会津などに引っ越していきました。
 時代は明治の後半です。西洋化が進み鉄道が敷かれていきます。曾祖父はカタコト英語で怯むことなく西洋人に指導を受けながら仕事をしたのだと、堅物の叔父が珍しく誇らしそうに話しす様子に、うれしく聞き耳を立てたことも懐かしい思い出となりました。
 山梨では中央線を敷き、会津では磐越西線に携わった曾祖父は、後に自分の息子とともに「丹那トンネル」の工事に携わります。
 母の親族の誇りだったそんな仕事も、今では知る玄孫もいなくなりました。
 
 私の手元に、祖母が十八、九のときに父親に宛てた手紙のコピーが残っています。毛筆で書かれた候文です。
 母親の療養のため戻った名古屋から、その病状を会津にいる父親に書き記しています。父親を尊敬している様子と、母親を案じる気持ちに溢れています。
 開くたびに、おばあちゃんの賢さに胸打たれます。
 私が、こうやってものを書くことに興味があるのは、祖母の影響なのだと思っています。
 書き残すことは、私が一通の手紙に感化を受けたように、いつか孫やその子たちの励みになるのではないかと思うからなのです。
 
 縁あって大阪に嫁いできた祖母は、畑違いの工場の切り盛りをすることになりますが、見事に、工員さんや女中さんの先頭に立って、子供六人を育て上げました。
 私はおばあちゃんが死んだ時、小学六年生でした。以後、高校生になっても、夜になったら泣き続けました。大好きなおばあちゃんでした。そして、今も枕元に飾ってある写真の中から、眩しそうな目をして私を見守ってくれている大切な人です。