こころあそびの記

日常に小さな感動を

走る理由

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 オリンピックが終わり、立秋の声を聞き、台風接近のニュースを見る。
 しばらくは、祭りの後の呆けた日々になりそうです。
 
 男子マラソン大迫傑さんが六位に入賞されました。
 私みたいに体が重たく生まれついた人間には考えられない、種が異なるとしか思えない、ランナーが快走する姿に神々しささえ感じます。
 「走る」ことになぜ命をそこまで賭けられるのかと、観戦しながら思い浮かぶのは、やはり太宰治の「走れメロス」しかありませんでした。
 メロスには走る理由がありました。人を信じられない暴虐な王ディオニスに差し出した親友セリヌンティウスのいのちを、何としても救うのだという強い思いです。
 しかし、オリンピック競技のマラソンに、走る理由はありません。ただ、走る。ひたすら、走る。
 目指すものは、何でしょう。
 近代オリンピック競技大会を提唱したクーベルタン男爵が考えたオリンピック精神とは「スポーツを通して心身を向上させ、文化や国籍の違いを乗り越え、平和な世界の実現に貢献すること」とあります。
 金メダルを取るために走るのではない、スタートラインに立てた自分は、その時すでに勝者なのだ。という大迫傑さんのコメントは究極を目指している彼らしいものでした。
 そんなに追い込んでは自分が潰れないかと心配になりますが、それだけのトレーニングを積んだ彼のプライドの表出でしょう。
 
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 走る理由の変遷からは、時代が確かに成熟に向かっていることが窺える気がします。
 メロスのように個人の心の葛藤でもなく、金メダルという物でもなく、目指すものが更に高みにあることに、人々は気づき始めています。
 それは、次世代へのバトンを繋ぐのが自分の役目なんだという自覚です。
 侍ジャパンの皆さんもおっしゃっていました。僕たちの活躍が、これを見てくれている子ども達に「野球やってみようかな」と思ってもらえたら何より嬉しいと。
 
 今生まれたばかりの赤ん坊も、死の床にある老人も、すべての人が平和を実現する権利を持っています。
 それこそが、オリンピック憲章の精神です。
 開催したから貧乏クジを引いたと考えるのではなく、その経験を明日に繋げられる立役者として、胸を張ってみてはいかがでしょう。