こんな写真が知人からラインに送られてきました。
これは何の写真がわかりますか?世事に疎い私は知りませんでした。
これは「気(け)抜き」というのだそうです。
更地にして、新しく何かを建てるとき、まずは地鎮祭の前に、地の気脈が滞りなく流れるようにするそうです。人間に鍼を刺すのと同じですね。
科学が進化を遂げて、何もかも制覇した気持ちになりつつある世の中ですが、こんな祖先の叡智を知るにつけ、昔の人は偉かったと感じることばかりです。
町が騒がしくなり、直感力や第六感は発揮の場面が少なくなっています。
それでも、こんなふうに目で見える形で見せてもらったら、土地神様がいらっしゃることを思い出せそうです。
皆さんはどんなときに、目に見えないものを感じられますか?
たとえば、人生。自分の力で生きてきたとはとても思えなくはないですか?子供だって孫だって守られて生きている。この年になって、ようやく分かる真理です。
「そんなことしてたらバチがあたるよ」
「お天道様が見てはるよ」
親にそんなことを言われて育ったのは私達までかもしれません。
見える世界より見えない世界の方が数倍多いと聞きます。私たちは何かにいつも守られている。そう思って過ごすことが幸せに通じると、たとえ迷信と言われようと信じたいものです。
中国哲学は漢方のベースです。
漢方を勉強し始めた人が初めに手に取る本の中に「漢方常用処方解説」(高山宏世著)があります。その本のあとがきに高山先生が「知るものは言わず、言うものは知らず」という老子の言葉を掲げて、“発刊は知らないからできること”と謙遜の言葉を記しておられます。
紀元前140年頃成立したとされる『淮南子(えなんじ)』という書物の「巻十二 道応訓」の中にも上の老子の言葉が採用されています。
「道応訓」には無窮と無為と無始の三人が出てきます。
無窮は道を知っていると言います。
無為は知らないと言います。
無始は「知らずと答えたのは深く悟るものであり、知ると答えたのは浅薄。知らずとするのは真髄に達したもの、知るとするのは皮相。知らずとするのは本質をとらえたもの、知るとするのは末節だな」(明治書院新書漢文大系『淮南子』より)と話します。
知るということはなんと奥深いことでしょう。
無始という、はるか昔のこの宇宙の始まりを夢想するとき、胎内に帰るような不思議な感覚が甦ります。