何事もやってみないと、その大変さも、その楽しみも分からないといいます。
篆刻なんてものを、やってみようとたった十数分間削っただけで、腕が上がらなくなってしまいました。
彫っているときは、これぞ無心だと満足したのに、次の日から、えらいことになりました。
豊中に長野展延さんという篆刻家がおられます。
何度か、個展にも伺いました。
彼は定年後に篆刻を始められたと聞いています。今では篆刻どころか多色刷りの版画に書を添えることまでなさっています。今回、自分でやってみて、初めてそれが如何にすごいことかと実感できました。
作品に仕上げる根気と情熱がなければ、物は完成しないことを知りました。
今までの自分の態度を反省して、是非彼に一から手解きを受けたいと切に思ったことです。
本屋に平積みになっていた『北斎 富嶽三十六景』を手にとり思ったことがありました。
葛飾北斎は映画でも、テレビドラマでも変人扱いされています。
しかし、実際には、端からそう思われるくらいでないと本物にたどり着くことはできないのだと考えます。
自らを狂人と名乗って、一体何を求めたのでしょう。
「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言い残して事切れた北斎は、あと五年でどこに到達するつもりだったのでしょう。
彼の構図は彼の想像力のたまものといわれます。実際には見たことがないはずといわれたりしています。
しかし、たとえば、「身延川裏不二」の解説に「あえて富士山を目立たせないように岩山の間からかろうじて垣間見える形で描いた」とあるのですが、私はそうは思えないのです。
ずっと前、知った人が久遠寺のお坊様に嫁いだので、訪ねたことがあります。
近くのお寺に寄ったとき、目前に、同じ高さの富士山を見て驚いたことがあります。関西人は富士山の高さ大きさに接する機会がないので、幸運にも仰ぎ見られた時にはその威容にびっくりします。
「身延川裏不二」が遠近法で描かれずにドーンと目の前に描かれている姿は、関東人にはおかしいと思われても、関西人にはそうだ、そうだったよねと納得できる構図なのです。
この絵を見て、北斎もきっと身延のお山から富士山を見たことがあったに違いないと賛同するのは関西人かもしれません。いや、失礼。彼は日蓮宗徒だから、絶対に見たはずです。
北斎。斎は禊ぐの意味。
北極星を巡る北斗七星を命名に込めたともいわれます。
森羅万象に畏敬の念を持ちながら、やりたいように生き通したと言われる北斎が今でも世界中で愛されるのは、作品に必死さが見えるからではないでしょうか。
あんなでなくとも、爪の垢煎じたくらい薄めた必死さはどこか体の奥深くに仕舞っておきたいものです。