考え事をしていたのでしょう。気づいたら来たことのない公園に迷い込んでいました。これもまたよしと進んでいくと地域の方々の手で植え付けられたかわいい花々に出会えました。
ルートを変えること。それも今日のお定まりだったように思い直し、赤ちゃんを抱っこしたお母さんに挨拶代わりに目配せをして淀川の土手に上りました。
河川敷にある小さな森は裸木ばかりで遠目には眠っているように見えます。
椋鳥の群れが枯草の中で何かを啄んでいます。
しーんとした朝に小鳥たちだけが元気です。もうじき始まる彼らの春の囀りで木々が目を覚ます日も近いことでしょう。
名残惜しみながら土手を下りたら、そこに枝垂れ梅が咲き始めていて、今日はこれを見せてくれる日だったのかと嬉しくなりました。
導かれるままに歩くことで小さな発見ができた朝でした。
昨日、何気なくつけたテレビに女の子が大映しになっていて、音がありません。何事かと思っていたら、次第に事情が分かってきました。
女の子は泣きじゃくって声にならなかったのです。
「誰っ、この子」。
川村あんりさんでした。
その後、声の出ているシーンは何度か再生放送されていますが、あの生放送には感動がありました。
モーグルなんて競技は、誰が考えたんだろう。としか今まで捉えていませんでした。そんなおばあさんにも、その競技を知らしめたことが彼女の功績だと思いました。
「この4年間、楽しいと思って滑ったことはありませんでした。でも、今日、4年ぶりに楽しいと思って滑ることができました(泣)」。
私ももらい涙。
天性のバネを持って生まれた少女は、滑ることが楽しくてたまらなくて練習したことでしょう。しかし、オリンピックを意識することで、ここまで追いやられることになるとは。それを乗り越えることがオリンピアンの条件とは過酷なことです。
そして、取材が終わる時に、「皆様もお寒い中ありがとうございました」と言えるタフさには感心を通り越して見とれてしまいました。彼女を虐めたのもスポーツなら、公平性とか心遣いとかを身につけさせたのもスポーツだったのです。
部屋に誰もいないのをいいことに、大拍手したことでした。
何事にも美しさと残酷さの両面があること。それを克服した人にだけ楽しみが与えられるという厳しい掟。この理不尽は古来から存続してきたもののようです。
これを納得させようと中江藤樹が解いた言葉に、
「志だに篤御座候えば天道の冥加にていつとなく開るものにて御座候。」(中江藤樹の『翁問答』より)
とあります。
願わくば、天道の冥加が努力したすべての人に降りてきてほしいと望むのは老人の戯言。いつか開かれるものは、メダルだけではなくて、生きるために大切なものだったりするのでしょうね。
今朝も高梨沙羅さんが失格というショッキングなニュースに驚きました。
その時、「飛ばなくてもいいよ、怪我するかもしれないから」と気遣った小林陵侑選手の男前さ。涙をこらえて飛びきった彼女をハグしてあげる優しさ。
運動音痴には経験できない感動がしばらく続きます。
心の中でありがとうを連呼しています。涙も。