家を出ようとしたとき、「ピーピー」と鳥の声。
そうだ、今日こそ、と双眼鏡をポケットにしまって出発です。
宝塚の観劇の必需品が、バードウォッチングのお供になるなんて。グッドアイデア!
小鳥が留まっている電線の上や木の先端までは距離があって、舞台を観るようにはまいりませんが、それでもないよりはましです。鵯のシマシマした柄や四十雀のネクタイ柄をはっきりと観察することができました。
日の出前、東の空にかかる雲の姿形は毎日変わります。二つと同じ日がないことは自然が神様である証拠のように思えます。
今朝は紅色でした。
水月公園に着いた時には、太陽はすっかり姿を現しているので、
「 梅が香にのっと日の出る山路かな 芭蕉 」
が、頭をよぎります。
カメラのない時代に、情景を切り取った詩人のセンスに敬服あるのみです。言葉の組み合わせ方の完成度に浸ります。
そして、俳句と目の前の情景とが合わさって、固まっていた心が解けて少し柔らかくなるように感じられるのです。
それにしても、「 山路来てなにやらゆかしすみれ草 」というのもありましたからなんと健脚の持ち主だったのでしょう。言わずと知れた『奥の細道』は、走破する体力があってのこと。足あっての芭蕉なのかもしれません。
芭蕉と蕪村。よく対比されます。
芭蕉は耳、つまり音楽的で空間の旅人と称され、蕪村は目、つまり絵画的で時間の旅人といわれます。
例えば、
「 春の海終日のたりのたりかな 蕪村 」
聞いているだけで、春の物憂げな感じが伝わってきます。
賢くて健脚の芭蕉が好きですか。それとも、温かい絵のような蕪村が好きですか。
学生時代には、国語が苦手でどうしようもなかったのに、この年になって、詩や俳句を意味は分からないなりに鑑賞するようになりました。
そんなとき、ふと犬養孝先生の講演の言葉を思い出して、私もその一人かなと可笑しくなるのです。
「理系の学生ほど感動しますよ」
先生が主催されていた“万葉の道を歩く”に参加する学生の中で、実際に滝の前で先生が詠う万葉歌に感動を露わにするのは理系の学生だとおっしゃっていたことを思い出します。
知らなかったことを知る。
それは、封印されていた心の感度を上げることです。
無味乾燥の生活では心が萎みます。
「詩なんか読んで何になる。確かに何にもなりはしない。私達は日頃ひどく振幅のせまい感情生活を送っている。喜びであれ悲しみであれよくよく浅いところでしか感じていない。ところが詩を読み味わい感動することによって喜びや悲しみを深く感じることができるようになる。」『詩歌遍歴』(木田元著)より抜粋