雲一つない曙もいいけれど、寄せてくる波のような雲を赤く染めて明けていく朝も好ましく思えます。
それは、雲があるからこそ大空の広さに気づくという意識かもしれません。
上の写真は昨夕、散歩しながら見た空です。山際の茜色が太陽の在り方をほのかに示しているところに惹かれるものがありました。
今朝の「こころ旅」で正平さんが甲府市を走っておられたので、久しぶりにおばあちゃんを思い出しました。
祖母は明治26年生まれです。
父親は鉄道省に勤める鉄道技師で、特にトンネル敷設に力を尽くしていました。
祖母が生まれたころは、中央線を敷く決定が帝国議会で可決された時期に重なります。
転勤を繰り返して、祖母が幼い頃に過ごした場所は山梨県でした。
「こころ旅」のお手紙の主も書いておられたように、その頃は弟妹を負ぶって学校に通い、廊下で授業を聴くのが当たり前の時代でした。
祖母も、妹を背負っていたそうです。
その女の子の名前は、当時の官舎の近くに流れていた川の名前から「浅子」と名付けたと聞いていたので、さきほどから山梨県の浅川を探しましたが、見つかりませんでした。
ただ、浅川という地名はありました。。
トンネルマンだったから、笹子トンネル近くに住んでいた可能性がある。としたら大月市の浅川か、富士河口湖の浅川か。と、宛もなく地図を眺めるだけで、その中で繰り広げられた一つの家族の物語にワクワクしてきます。
そんなことに興味を持つなんて、やっぱり私はおばあちゃん子です。
さて、30年前、小学生の娘を誘って、藤城清治さんの影絵を見に行こうと日帰り旅行に付き合わしたことがありました。
祖母が住んでいたことのある山梨県に行ってみたいという本音を隠して決行しました。大阪とは縁の薄い場所ですから、思い切らないと行けない遥かな土地です。
なぜ、そんな遠いところなのに“日帰り”にこだわったかというと、母の目が怖かったからです。叱られないかな?何もなかったようにやり過ごそうという計画は、娘も理解してくれていたので、二人でこっそり出かけました。
新幹線から身延線に乗り換えて、真っ白な雪の富士山の裾野を走ったことは、今も眼裏に鮮明に残っています。
甲府美術館の開館記念「ミレー展」を見てから、おばあちゃんが絶賛したていた「昇仙峡」にどうしても行きたくて、時間を気にしながらバスで向かった弾丸旅行でした。昇仙峡をどう歩いたことやら。藤城清治さんの「昇仙峡 影絵の森美術館」で、水鏡を駆使して飾られた別世界を鑑賞して、帰途につきました。
叱られないかなと首をすくめて帰ってきたら、「泊まってきたら良かったのに」と母が云うではありませんか。細心の注意をして出かけた内緒の旅行は母に覚られていたのです。その言葉に拍子抜けして、娘と今でもことある度に思い出しては笑いの種にしています。
「生前にもっと訊いておけばよかった」とは多くの人が持つ後悔です。私もその一人です。
しかし、すべてのことに共通しますが、知らないから、知りたくなるのではないでしょうか。現に知らなくてもいいことまで知ってる人はそうは思わないと、よく聞きます。
点と点を結んだり、点を円に膨らますことを、これからも続けたいと願うのは、私が何も知らないからだと思います。生きる糧は、物ではなく、確かに生きた誰かの足跡であると思っています。それが、おばあちゃんだからなおさらなのです。