こころあそびの記

日常に小さな感動を

ゆるい幸せ

 小児科医院をされている旧家の庭に、大きな栴檀がありました。この木を植えられた先代院長さんの子供への思いが伝わってくるように感じて、花盛りの木を写真に収めているとお声がかかりました。
 「あの、何を撮ってはるんですか?」
 「栴檀です」
 「セ・ン・ダ・ン?」
 「“栴檀は双葉より芳しい“の栴檀は白檀ですけどね」
 「それも知りませんでした。」
 「花盛りですよ」
 「何色なんですか?」(逆光でよく見えませんでした)
 「紫がかった白色ですね」
 「きれいですね。いつも下ばかり見て歩いているから・・」
 お先にと失礼したあと、彼女も携帯を向けておられたので、あ~良かったと思いました。
 私だって、初めはだれかに教わったのです。
 これから、彼女が足元ばかりでなく、木を見上げ空を見る機会が増えることを期待したいです。

 小児といえば、近頃、子供への言葉がけが変わりつつあります。
 「ひとに迷惑をかけないように」という周りを気遣う言葉よりも、自己肯定感を育てることが主流になりました。ひとりひとりが輝くようにというスローガンも定着した感があります。

 生きるということは二つの側面があります。
 人間同士の関係、つまり社会生活という面と、個人の幸福感です。大切な両輪です。
 
 迷惑をかけない、というのは社会生活のルールです。
 古代、まだ定まった規則がなかった時代には、決めごとが必要でした。
 儒教が教える“先祖を大切に”、“年長者を敬いましょう”、をはじめとする沢山の規則が社会構成を安寧にしました。
 ところが、規則を押し付けられるだけでは為政者に良くても、個々人は幸せを感じられません。そんな社会と個人の成長のアンバランスが続きました。
 そして今、ようやく社会が成熟してきたから、幸福の希求は個人レベルへシフトしてきたように見えます。
 社会が落ち着いたからこそ、個人の権利が主張できるようになったのです。
 

 
 最近、トイレの中で見かける貼り紙が変わったと思いませんか?
 ひと昔前は「きれいに使いましょう」でした。これは、ルールの押し付けです。それが今は「いつもきれいに使って下さってありがとうございます」と、個人の心に訴える言葉に変わってきました。
 
 トイレだけではありません。あらゆるところに、このような変化を感じます。
 例えば、コロナワクチンの接種に関しても、接種券の配布は行われますが、個人の選択権も認められるようになっています。
 

 社会の変化に乗り遅れないようにしなくちゃなんて思う必要はありません。
 ただ、幸せだと思う感性を磨くことだと思います。
 今日、気持ちいいこと何かありましたか?それがあれば大丈夫!
 みんなが笑顔になれば、社会の方も変わらざるを得なくなることを感じています。