こころあそびの記

日常に小さな感動を

いっとき今昔

 

 夏は、目覚めた瞬間から明るくて、時間の感覚が薄れるときでもあります。
 日常、目覚まし時計で起きて、掛け時計と睨めっこして台所仕事をして、外出時には携帯の時刻表示を頼りに生活していますが、この時間はあくまでも西洋式の時間の数え方。1日を24で均等割りした1時間を使っています。なるほど、科学的といえます。


 
 週末のお話会の準備に『暦のはなし十二ヵ月』(内田正男著)の夏至の項を読んでいて、興味をそそられる話がありました。
 人間の感覚を大切にした時間割です。

 日本では西洋式の機械的な時間が入ってくるまで、日の出前を明け六つ(払暁)、日の入りの三十分ほど後を暮れ六つ(薄暮)として生活していました。
 太陽が上っている間が昼間です。
 従って、六つに割った夏の一時(いっとき)のほうが冬の一時より長いのです。
 人々は一時をお城やお寺が鳴らす鐘や太鼓の音で知って生活していました。
 夏の方が仕事できる時間が長いということは、漢方養生「夏は活動のとき」に合致します。昔の人は頭で自然を知るのではなく、生活そのものが養生であったように思えます。
 
 また、よく疑問に上る芭蕉の歩くスピードに関して、別の視点があることを知りました。
 先日は摺り足という日本人独自の歩き方にあったのではないかという話を、甲野さんの著書から拾いました。
 今回は、時間の計算法です。
 つまり、芭蕉奥の細道に旅した夏場は昼の時間が長かったのです。単純に明け六つが午前6時とするから、昼までに七里も歩けるはずがないとなるわけです。
 実際には、夏の夜明け(明け六つ)は4時です。そう考えたら、昔の人の足なら歩けない距離ではない、となります。

 時間は永遠に途切れることなく流れ続けます。それを区切る方法として、太陽が大きな存在であり続けてきたことに、ますます敬意を感じないではおれません。

 閑話休題。近頃、学校でチャイムを鳴らさないところが出てきているようです。
 周辺の騒音問題が解消されたという良い面もありますが、反対に子供の自主性を育てるためだったノーチャイムが、かえって時間を気にして集中力を欠くことになっているというこという報告には笑えます。
 

 夕方、公園から流れるメロディーで、三々五々、子どもたちが「また明日」とそれぞれの家に帰って行く様子を見るにつけ、これほど平和の情景があるだろうかと思います。
 いつまでも鳴り続けて欲しいチャイムです。