カナカナカナ、とヒグラシの鳴き声で目が覚めました。
弱々しい声が直ぐに止んでしまったのは、私の招ねきに応えてくれただけだったのでしょうか。
お盆が近づき、夏はようやく盛りを過ぎようとしています。太陽の力が少しトーンダウンしたと感じませんか?
疲れをためないことが夏の終わりの養生です。
さて、仕事から帰ってきて、やれやれとテレビを付けたら、大海原が映し出されました。
何だろう、としばらく観てたら吸い込まれてしまったので、今日は予定変更でこの番組の感想です。
『鯨獲りの海へ~捕鯨船団53日間の記録~』。
男だ、女だと迂闊に言えないご時世ですが、この仕事は男の中の男が携わるに相応しい仕事だと思いました。
大きな銛(もり)を仕込んだ鉄砲で鯨を撃つ係を“砲手(ほうしゅ)”といいます。
砲手の心意気が捕鯨頭数に直結します。
勇気、決断力、分析力・・たくさんの要素がないと、この役は勤まりません。
乗組員全員で大海原を見渡し、潮吹きが見えたら、砲手の出番です。
親子とか、幼いものは見逃してやると聞くと、海の男の優しさを感じます。
これと狙いを定めたら、急所を一発で仕留めることを目指すのは、苦しませないためだといいます。
外したときには、鯨にごめんなさいと心の中で謝まるのだとか。
彼らは日々、大きな獲物と対峙しているからこそ、「いのちをいただく」という神聖さを誰よりも知っておられることに感動します。
台所の細々した調理ではなかなか実感できないことを、大海原で何十メートルもある巨体の鯨から学ぶ、スケールの大きな仕事です。
若い乗組員の方の、海の上は生活し易いという言葉は意外でした。
なにもない。SNSに溺れることがない。それが、どれほど気持ちのよいものかを知ってしまった若者の存在を頼もしく思いました。
生きていることのありがたさを、原始から変わらない一番シンプルな鯨を捕まえるという生活から学ばれたのですね。
そして、捕らえた鯨は直ぐに母船に回収して一時間以内に、余すところなく解体します。棄てる部位はありません。
その包丁の切れること切れること。
「長じれば、骨に肉は付いてなくて、肉に骨は付いてない、という感覚に自然になってきます」という使い手の言葉は、まさに、『荘子』の養生生篇そのものです。
目で見て切るのではなく、達者になれば、感覚で切れるようになる。そうすれば、骨に当たることもないから、19年間、研がなくても刃こぼれもない、という話です。
ちなみに、この話が包丁という言葉の語源でもあり、貝原益軒が「養生訓」に用いたところでもあります。
ここでは、鯨に対する”愛“が至高の技を磨き上げているように思います。どの人も、鯨に感謝しながら作業していることが察せられました。
最後に、次期砲手と期待のかかる若い方が漏らされた言葉が素晴らしくて慌ててメモを取りました。
「海を見ていると落ち着きませんか?彼らも生きてる。自分も生きてる。生きてる感じがします」。
バタバタと丘の上で過ごす私たちへの最高のメッセージです。忘れちゃならないことは、「私たちは生きている!」です。