朝、ふと、来週にはお寺さんに月参りをお願いしてるのに、仏壇に好みのお線香がきれていると気づきました。
昼からは雨予報。
そうだ、今直ぐ出発しよう。
お線香を買うためだけに向かうは、興福寺。
雨にも合わず、興福寺東金堂に着きました。参拝のためお堂に入ると、心が清らかになる薫りが満ちていて、慌ててでも来た甲斐があったと安らぐ思いがしました。
薬師如来、月光菩薩、日光菩薩に手を合わしながらお久しぶりです、と合掌させていただきました。
暗い堂内では、薬師如来さまのすすけ方と光背の対比が美しく、その光の受け方はは鎌倉時代の人が見たと同じさまと思うと感慨ひとしおでした。
何度も訪ねているお堂なのに、なぜ、そんなことが過ったかというと、このところ頭の中から離れないフェルメールが思い浮かんだからです。
「光の魔術師」といわれる彼の光の扱いと重ね合わせてしまいました。
先日、阿倍野に祖母のお墓参りに行ったついでに、寄ろうか寄るまいかと逡巡した結果、『フェルメール展覧会』に入場してみることにしました。
フェルメールの生きた17世紀は天然光以外に光の乏しかった時代です。
日本でいえば、松明か行灯か蝋燭。ヨーロッパでも、そこは、変わりがなかったことでしょう。
そんな時代の絵であれば、レンブラントの『夜警』のように、暗い画面はいたしかたないもの。わかっていても、画面の光量の少なさは目の悪い私にとっては、見えづらいから食指が動かなかったのです。
ところが、帰り際には『手紙を読む少女』のハガキ大の絵を額付きで買ったくらいお気に入りになってしまったことは、自分でも想定外でした。
この絵でフェルメールは、窓からの自然光をうまく演出に使っています。
窓にかかるカーテンが赤色、少女の袖は黄色、そした窓枠がフェルメールブルーです。この窓枠のラピスラズリ色は出品の本物でないと見えにくいように思います。
これらの色が、修復作業直後とあって冴えた色合いで目に焼き付きました。
それにしても、度々ですが、芸術家とはなんと根気がいることでしょう。
テーブルクロスやお皿の柄、窓に映る少女の影、画面手前にだまし絵のように架かるカーテンの黄色の陰影。
画中画のキューピットといい、テーブルの上の果物といい、画面いっぱいに、ごまかし部分のない構成に、感心してしまいます。
これって、素人好み?
1879年にエジソンが京都府八幡の竹のフィラメントを使った白熱電球を発明してからまだ140 年です。もっと光を。世の中は明るさを増す方向に走り続けています。
そうなると、なんだか陰翳というものが懐かしく、のっぺりと明るいだけでは物足りなく感じてしまうのはあまのじゃくというものでしょうか。