昨日は三伏の最後、末伏でした。立秋以後、初めての庚(かのえ)の日。
あとは、燃えるような暑さが収まってくれるのを待つだけとなりました。
隣のお宅に大きな梧桐の木が植わっています。
秋になるたびに、大きな葉がカサカサになって落ちるのを見てきました。そして、これがあの有名な葉っぱの主なのだろうかと疑問に思って過ごしてきました。
「桐一葉落ちて天下の秋を知る」
調べてみたら、この「桐」は「梧桐(アオギリ)」のことであれば、意が通じると腑に落ちました。
なぜ、「桐」という一文字に惑わされたかというと、どうしても「桐箪笥」のほうに親近感をもってしまうからです。
母の嫁入り道具である桐の箪笥が今も現役です。戦争直後の物のない時代、娘に持たせる物がないことに腐心した祖母は自分の箪笥を持たせたと云います。その気持ちを、せめて、私の代までは大切にしたいと思って、使い続けているのです。
さて、桐は紫色の花を春に咲かせます。今年は、大阪城や千里川沿いで見つけました。
片や、アオギリの花は薄い黄色で、樹上高くに咲いているので、木に興味がないと見逃してしまう地味なものです。
だから、つい、「桐」のほうが格上かと思っていました。
ところが、この梧桐のほうが本当は凄い逸話を持っているのです。
「鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず」(詩経)と、昔の中国では鳳凰がこの木に止まれば瑞兆とされたことが記されています。そうと知ると、お隣の梧桐が愛おしくて、通るたびに見上げてしまいます。
今日、ついに、いいものを見つけました。
梧桐の実です。束になっていくつかついています。これからしばらくは、裂片に種子をつけたまま、風に舞いながら落ちる様や、さらに、あわよくば、塀の外に飛んできたボートを拾う楽しみが続きます。
こんなに心躍らせる自然現象を持つ梧桐ですのに、「天下の秋を知る」なんてメランコリックな気分にさせるのはどうしたことなのでしょう。
それは、すでに秋を感じている身体の中から、何かに触発されて浮上してくる感情なのではないでしょうか。
サトウハチローさんの『ちいさい秋みつけた』の中で追憶と感傷を歌っておられます。
秋は大手を振って現れるのではないから、一人ひとりの目と耳でこっそりみつけなくてはなりません。
目隠しされても、手の鳴る音が聞こえる方からやってくるという歌詞の意味がわかるような、静かな秋の始まりです。