突然ですが、もしも、岸田総理が東京弁でなかったら。
弔辞の文章はもっと人々に伝わったのではないかと云われています。それ程、内容はよく練られたものだったからです。
ところが、どうでしょう。
一級品として、後世に残る名演説と賞賛を浴びたのは、菅義偉元総理大臣でした。
エピソード一つ一つを吟味して、臨場感を感じさせた文章力もさりながら、なんといっても万人を唸らせたのは「東北弁」のイントネーションだったのではないでしょうか。
これほどの文章でも、標準語で話せば、魅力半減。
あの日、日夜、標準語で話すことを生業としているアナウンサーも、「あの言葉が良かった」と評していた姿に同じ気持ちを共有することができました。
さように、方言は懐かしい言葉。その土地に育ってない者まで、なにやらいつか聞いたことがあるように思わせる言葉です。
先頃、宮崎を訪れたばかりの私は、彼の地で耳にした宮崎弁を思い出します。なんと、温かくて耳触りのよいトーンなのでしょう。
聞く人をその柔らかさで包んでくれます。癒やしの言葉です。
大阪には宮崎出身のナースが意外と多くいらっしゃいます。
彼女たちの話しかけが、どれほど患者の闘病生活を助けていることか。多分、話しているご本人たちはお分かりではありません。
私が羨ましくて、「宮崎弁、いいですね」とほめると「そう?いやでしょ」と照れたりなさいます。
絶やしてはならない。方言が見直される時代になってきたことが各所で見受けられるのはうれしいことです。
昔、私が小学生のころは、まず日本中の言葉を統一することが教育の眼目にあったのか、あるいは、担任の先生が方言嫌いだったのか、どちらか分かりませんが、まず標準語を指導されることが多かったように記憶しています。
「NHKのアナウンサーの言葉を聴いて勉強するように」と、宿題に出たので、テレビニュースを観ました。
そこから学んだことは、各局でニュアンスが違うということでした。おませな子供は、恥ずかしながら、どこか斜めに世の中を見る大人になりました。
もとい。
「ふるさとの訛なつかし停車場の
人ごみの中にそを聴きにゆく」
同郷の人に混じると、それだけで安心できる。同窓会で、かつては疎遠であった友人にさえ懐かしさを感じることに似ています。
方言の魅力は、いのちの下支えができることに尽きます。生き続けてほしい言葉です。