若い頃に本を読まなかった私は、今頃になって、そうだったんだと初めて知ることが多く、お恥ずかしい限りです。
先日、四天王寺に行った時、「古本市」に出くわしました。
時間がなかったのですが、これもご縁とばかり、通りすがらに手に取った『新唐詩選続篇』(吉川幸次郎、桑原武夫著)という年代物の岩波新書を買いました。100円でした。
1954年初版ですから、ほぼ私と同じ年月を生きてきた書籍であることに感慨を覚えて手に取った次第です。
漢詩の解説書に、フランス文学者の桑原武夫が加わっていることに興味をもって、彼が書かれた部分の前書きを開きました。
そのいっとう初めに、三好達治が出てきました。
この本の本編を書くにあたり、吉川幸次郎の文章のあとに、三好達治の漢詩の本質を論じた一文が添えられているいうのです。
昔の人、といっても半世紀前ほど前の人達の教養の奥行きには感服します。
三好達治の『諷詠十二月』という本を手元に愛蔵している者として、なんで、漢詩の本なのかといつもクエッションだったのが、桑原武夫の解説により明らかになりました。
漢籍に精通されていた。そして、更に、漢詩だけではなく、フランス語の訳詩も手がけていることも、杉本秀太郎のあとがきで知ることに。
一冊の小さな本から、なんとたくさんのことを教えてもらえたことでしょう。バラバラの事象がつながったのです。
三好達治は大阪人で、旧制、市岡中学出身だということ。
なぜか、「我が名をよびて」がいつも心に潜在していること。
そんなことから、彼をいつしか身近に想うようになりました。
今日まで読書量が少なかった分、今からの読書の楽しみは膨らみます。
そのことを、前半生でサボったツケが回ったと捉えず、知らなかった世界に分け入る楽しみが残っていると考える私はどこまでもお気楽なことです。
「哀しみこそはせめてもの心の糧であり、日々の心を満たすところのかけがえのない何ものであるかもしれません」
と、三好達治は『詩を読む人のために』で記しています。
わかる人には解釈不要の詩。
わかる人でいたいから、これからも詩集を携えていたいと思っています。