こころあそびの記

日常に小さな感動を

たとえつまずいても

 

 いつもの場所にコガモファミリーを見かけると安心します。

 ここより少し下流は近頃、泡立っていますから鳥たちが寄ってきません。カルガモたちの姿が見えなくて、ちょっとさびしい朝です。

 冬鳥の飛来が楽しみな季節がやってきました。千里川を美しく保って待ちたいものです。

   

 

 先日、来店された86歳の男性。

 「お元気そうですね」

 「そうですか?」

 「スポーツウェアがお似合いです。何かされているのですか?」

 「卓球の指導員してるんです」 

 「いいことですね」 

 「今からどちらへ?」

 「千里まで。バイクでどこへでも行きます。なんでも若いときにやっとかなあきませんな。この資格も若いときに取ってたんです。」

 そして、颯爽と店を出て行きざまに、

 「わかりませんで。明日脳梗塞になるかも(笑)」

 という言葉を残していかれました。

 

 

 誰でも明日のことはわかりません。

 わからないから、今日、全力で過ごすことができる。それも神の恩寵です。

 もしも、死ぬ日が分かっていたら、近づくその日をカウントダウンしながら、人は何を思うのでしょう。

 その日まで、空っぽの心で虚しく生きるとしたら、それは悟りでもなんでもないと思うのです。

 

 中国の明代の学者、袁了凡によって書かれた『陰騭録』に、出てくる話があります。

 袁了凡が子供の頃、家に易者がやってきて言うには、「あなたは、科挙の試験に合格して、役人になるでしょう」と、予言します。

 聞いていた母親は、「うちは医者の家系ですから、役人にはならないと思います」と反論しますが、易者は強く否定して、高級官僚になると言い切り、続けて、「結婚はするものの、子供には恵まれず53歳でこの世を去ることでしょう。それが運命です」と言いました。

 その後、袁了凡はこの易者のいった通りの道を歩みます。

 

 役人になったある日、坐禅を組む姿に雑念が全くないことを禅師に指摘されます。

 子供の頃、易者に言われたことを告げた後、

 「ですから、こうなりたいなどという野心が全くないから、雑念が見あたらなかったのかもしれませんね」

と、言った途端に禅師は喝を入れます。

 「確かに今日まで運命に導かれてきたように見えるかもしれない。しかし、運命は変えられるのです。どのようにしたら?それは、善いことを思い、善いことを実行していけば、善い方向に変わっていくのです」と、諭されます。

 それからというもの、袁了凡は言われた通りに実行していく中で、子供にも恵まれ長生きすることになります。

 

 易者は統計学から割り出されるざっくりした話をします。

 それは、あくまでも外から見た時の話です。

 中身は自分の生き様によって、意味有るものにも、無意味にも変化していきます。

 

 

 先頃お亡くなりになった稲盛和夫さんも、若い人への餞の言葉としてよく話されたとか。

 それは、ご自身が実際に体験なさったからにほかなりません。

 

 明るいほうへ、希望のある方へ。そして、他者が喜んでくれる道を選んで歩くことで、人は人生を全うできると信じます。

 

 最初に取り上げた彼が、高齢者でいらっしゃるにも関わらず、なぜお元気なのか。

 明るくにこやかに、周りの縁ある人に尽くす姿に秘訣があると思うのです。

 明日倒れても悔いない人生。それは、利他と笑顔から。