こころあそびの記

日常に小さな感動を

渾渾沌沌

 

 昨日、春日山原始林でナンバンハギの伐採が行われたとニュースになっていました。

 世界遺産に登録され、国の天然記念物でもあるシイやカシの照葉樹林を守るために必要だとか。

 しかし、最初に奈良公園に植えたのが人間で、それが風に乗り動物に運ばれて育ったと聞くと、心傷みます。

 自然を守る。と、一言ですませられない深くて重い課題を抱えた伐採です。

 長い目で見ても、それが正解だといいのですが。千年あとにならなければ答えは分かりません。

 

 

 そんなことを思いながら、掃除して広くなった机の上で、『荘子』の予習をしてたら、こんな箇所を見つけました。

 「外篇在宥篇-雲将-」で、雲将が鴻蒙に、どうしたら人民を治めることができるかと尋ねます。

 鴻蒙は「無為におれば物は自ら化す」と応えます。

 おまえ様はなにもしないでいたら、人々が勝手に目覚めるじゃろ。

 紀元前の荘子の実像を知る由もありませんが、今も朽ちない真理を持った偉人がいたこと、残した言葉に感心するばかりです。

 「無為自然」。

 知を好むものは天下を乱すといいます。

 無為にしていたら、すべてが自ずから育ってゆくだろうという言葉の実践は忙しい現代人には難しいかもしれません。

 しかし、そこに現代人が病む原因があるとしたら。

 本来、一人一人が持っているいのちに難癖をつけたり、矯正したりすることばかりが育てることではないとは耳が痛いことです。

 

 

 ですが、内在する善性に気づいて、横に結びついていくことで、世界はもっと幸せになれると説く人が出現しつつあります。

 そのお一人、社会活動家のニップンメータさんは、自他の境界というのは力が作っている。作為的な力ではなくて、ひとりひとりが持つ愛を自然と調和させることから始めようとおっしゃっています。

 

 まさに、荘子のいうところに近いように思います。

 それにしても、形が発達することが、心を置いてきぼりにすることを荘子はどうして知っていたのでしょう。 

 会って、お聞きしたかった

 いや、自分がそのレベルに達していないと通り過ぎるだけ。お目にかかるにはあと何百生、何千生です。

 

 

 古人の説いた精神に二千数百年後の今、人々が気づき初め、目覚め始めている現象に希望を見いだしています。

 心穏やかに愛を発揮できる日が近いことを願って。