こころあそびの記

日常に小さな感動を

子どものお正月

 

 元出雲神社の上の社に、素戔嗚尊と櫛稲田姫が祀られています。神話の中の最も勇敢な嫁取りのお話を、小学校の頃にはワクワクして聞いたものです。

 愛するということは、勇気がいることと教えられました。

 

 

 そのことをブッダは、慈しみの心は生易しいものではないと言っています。

 慈悲の心を身につけるのは、一振りの刀を鍛えると同じくらい簡単にはいかないと言い残しています。

 

「あたかも、母性がひとり子を、

 おのが命を賭してまもるがごとく、

 生きとし生けるものの上に、

 かぎりなき慈しみの思いをそそげ。」(慈経より)

 

 

 正月休み。楽しい集まりの時間もあっという間に過ぎて、お別れの時がやってきました。

 「いやだぁ、帰りたくない」と、だだをこねて泣き叫んでいる孫がいます。

 念のために申し上げますと、この子が別れたくないと泣いている相手は私ではなく、うちの娘に対してなのです。

 だんだんにエスカレートして、

 「そんなこと言ってたら、ママが悲しむよ」という慰めが慰めにならず、

 「いいよ。ななえちゃんとママが入れ替わってくれたらいい」

とまで言い出す始末です。

 子どもは時として残酷なものです。

 誰でも、こんな体験をして、一つずつ強くなって、ルールを覚えていくのでしょう。

 それにしても、毎日お世話する親は肉体も心も強靭でなければ、もたないと思った次第です。

 いや、無限大の愛しさをキープしてくれるのが我が子なのかもしれません。

 

 

 ところで、そんな孫の声を横で聞きながら何の助け船も出してやれず、情けない婆さんです。

 私の一言は却って、火に油という状況を作るだけですから。

 それほど、育てるということが不得手と自覚しています。

 それは、花でも人でも。

 「お母様はなにをなさっていますか?」と訊ねて、

 「小さい花壇で、花を育ててます」なんて、応えが返ってきたら、自分にはできないことですから、羨ましくてたまらなくなります。

 それに比べて、我が娘の持てぶりには感心してしまいます。

 育て上手。

 それは、多分に”鍛えられた愛“だと推測します。決して甘くはありません。

 それでも、大勢の友人や教え子に慕われる何かを持って生まれているのはありがたいことです。

 

 

 泣きながらベビーシートにくくりつけられて帰って行った孫も、今頃はお家に帰り着いた頃でしょう。楽しいお正月だったね。また、おいで。