こころあそびの記

日常に小さな感動を

何のために生きるのか

 

 今日は二十四節季「小寒」です。

 あと二週間もすると「大寒」。

 一年で一番寒い季節です。ここを耐えれば、次にやってくるのは、早くも「立春」です。

 冬至からは、少しずつ陽の兆しが芽生えていることに希望を感じて、風邪をひかないよう春を待ちましょう。

 

 

 毎日テレビネタばかりで恐縮ですが、今朝、BS『10人のお坊さん』の相談事は「何故生きるのか」という深遠なものでした。

 人は生きてるうちに一度は考えるテーマだといいます。

 先般、吉野源三郎さんが著された『君たちはどう生きるか』の復刻版が話題になりました。

 人として生まれて最大の命題ですから、読む読まないは別にして、どの家庭にも一冊はあったのではないでしょうか。

 それに準じたアニメーションをこの夏、宮崎駿さんが10年ぶりに公開されます。

 この難題を、今の若い人にどう伝えられるのか。とても、気になります。できることなら、Z世代の人にも理解できるものであってほしいと、いや、人生の大方を生きてしまった私たちにも教えて欲しいと願います。

 

 

 話を戻して、今朝のお話の中で印象に残ったのは、生老病死は避けられないこと。だから、今を精一杯生きることしかないと教えられたお坊さんがいらっしゃいました。

 「供養は何のためにするのでしょう。それは、自分の生きざまを先祖に見てもらうためです。がんばってる姿をご先祖にお見せするのです」

  

 「一大事とは、今日ただいまのことなり。」

 それがブッダが説かれた奥義です。

 

 

 

 ところで、若い頃の私は世間知らずで、ただただ修羅場のような毎日を悲しく思っていました。

 そんな時、出会った言葉は福永光司著『荘子』の中に見つけた「あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として、逞しく肯定していくところに誠に自由な人間の生活がある。」でした。

 どんな境遇であっても、それは自己を鍛えるために用意されたものであるのだから、逞しい精神をもって受け入れれば、解き放たれる日が待っている。

 そう信じさせてもらって、心が楽になりました。

 

 

 紀元前の戦国の世の中で、後のカントに匹敵する哲学を打ち立てた荘子は怪物であり、鬼才です。

 それだけに、座右に置いて何度、見直しても読み直しても、その奥義にたどり着くことはないでしょう。

 でも、こういう本が一冊あると、考え続ける楽しみが枯渇しないんですよね。