昨夕、雲に隠れる寸前のお月様に、さよならしたのに、今朝、西の空に輝く姿が見えました。
私たちが寝てる間も天は動いていることを、当たり前と無感動に見過ごしている人も、いつか、その神秘に感動するのでしょうか。
コロナに罹患して、長期の自宅療養を余儀なくされた若者が、その体験から、当たり前の日常の有り難さに気がついたという、嬉しい報告をされていました。
若者のこういう気づきほど我ら老人を励ましてくれるものはありません。なぜなら、日々の生活の中の何げない幸せ感覚が、人間の原始的な喜びのはずだからです。それが安寧だからです。
コロナの功罪はいろいろありますが、医療に対する考え方に転換をもたらしたことは、良し悪しは別として、その一つでしょう。
ずっと、人々は病気になったらお医者さんに駆け込むことが続いて来ました。医療は神様だと長い間信じて疑うことはありませんでした。
ところが、コロナはその医療神話を打ち砕くことをやってくれました。
人は、医療に駆け込む前に、一旦立ち止まって考えます。
今、行くべきかな。それとも、様子をみようかな。
ワクチンに関しても、強制ではありませんから、打つも打たないも、自分の選択です。
今まで自分のいのちを自分で守るといいながら、その実は、かけ声倒れでした。しかしながら、今回の騒ぎから、かけ声だけでは済まなくなったという感じがしています。
自分で考える。
それは、もうそろそろ他人を頼らずとも大丈夫。人々の民度上昇の具合を見たサムシンググレートが、自分で決められるレベルに達したと判断されてのコロナ騒ぎではなかったかと見えてきました。
コロナをきっかけに、世情を見渡しましたところ、そのことに気づき始めた現象が、いたるところから吹き上がってきています。
私には難し過ぎます。
ただ言えることは、当たり前の生活に根ざして生きることが、今こそ大切だということです。
その根本を揺るがせ、どこに自分の根っこを下ろしてよいのか分からなくなった時、判断は狂うと思われます。
当たり前に、まともに毎日を生きることが、あらゆる邪気を寄せ付けない方法です。邪なるものは、目に見えない形で忍び寄るから困ったものです。
さいわい、日本はそのことを十分に分かっている人が殆どです。それは、先祖がそのように導いてくれたおかげだと、また感謝です。
そうやって、当たり前に素知らぬ顔して健やかに生き抜きましょう。