堀辰雄著『浄瑠璃時の春』は、教科書に載っていたような。文学少女ではなかった私が覚えているのですから、きっとそうでした。
その中で、「こんなところに咲いている」と辰雄が喜び勇んで記した花が馬酔木です。
関西ではアセビの方が通りがいいかもしれません。奈良に春を告げる花のひとつです。
春来る自然にいち早く気づいて、紅色の蕾をつけている姿を見つけた私は、その自然への従順さにうれしくなりました。
「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど
見すべき君がありと言わなくに」
万葉集二巻一六六
一方、大津皇子を悼んで大伯皇女が詠んだ歌に出てくる馬酔木は、悲しみの花です。
たった一つの事象が、喜びにも驚きにも悲しみにも繋がります。そこに重ねる心象風景が人それぞれに違うからです。
ところで、鴨たちが、追いかけごっこをしたり、食事をしたり、休んだりしている姿を見ていると時を忘れます。
自然に助けられる時が、人生には必ずあるものだと紀野一義さんから教わったように思って、『いのちの風光』を久しぶりに取り出してみました。
25年前の文庫本です。
一時期、独りになれる風呂に持ち込んで、毎晩読んだものです。
何本も引かれた鉛筆の線が心酔具合を物語っています。それくらい助けてもらった本です。
「常懐悲観 心遂醒悟」
この本で知って、それ以来、珠玉の言葉となった法華経の一節です。
これを探して、パラパラとページを捲っていたら、三角に折ったページがありまして、そこは、まさにこの言葉の部分でした。
現世の修行のつらさに、泣いてばかりいたあの当時。
「常に悲しみを抱えることで、心は目覚め、いずれ悟りに至る」
そうであるなら、今しばらくの悲しみに耐えよう。
何度そう思いなおしたことでしょう。立ち直って、また一日を過ごすことができました。
紀野一義さんは、絶えず悲しみに打たれることによって、ひっくり返っていた判断力が正常にもどる話を書いておられます。
何が正常に戻るのか。それは、悲しみが消えることではなくて、もっと先、たとえば彼岸というところにまで考えが及ぶと言うことではないかと考えます。
目の前の現世が教えるものは、もっと大きなものへの飛翔です。
「まことのことばはここになく
修羅のなみだは土にふる」
今は、思いっきり泣いてください。