こころあそびの記

日常に小さな感動を

平和を祈る

 

 今日は『荘子』の講座に出席するために、上六まで車で出かけました。

 国道一号線、南森町あたりで、「祝150周年堀川小学校」の横断幕を見かけました。

 叔父が戦後しばらく奉職した学校です。洒落た外観に建て変わって存続していることを嬉しく思いながら通り過ぎました。

 とんと、上本町を通ることなどありませんから、『荘子』講義は貴重な市内入りです。下寺町、松屋町、谷町、農人橋という町名表示を目にするだけで、気分はすっかり子ども時分にタイムスリップしてしまいます。

 惜しむらくは、町の変貌です。知っている屋号は数えるほどになりました。

 

 

 さて、講座のあとのお楽しみは、普段お目にかからない出席者とお話しすることです。

 今日は、中国から日本に来られて、中国語の先生をされている方から、知らない話をたくさん聞かせていただくことができました。

 

 無趣味の私に向かって、「ご趣味は?」と訊かれたとしても、とっさに応えられるものは全くないのですが、さっき、思いついたことがあります。

 ひとの生き様を伺うことが好きなのです。

 老人施設に仕事で訪問していた頃、お話好きな方から人生に起こった様々な出来事を伺ったものです。

 人が一人生ききるということは、ドラマがあります。その満身創痍の足跡は必ずひとに感動をもたらします。

 

 

 

 今日は、満州の話を聞きました。

 なんでこんなに何も知らずに生きてきたのかと、今頃になって、情けなく思ってしまいます。

 それは、今まで、平和に幸せに生きてこられたから、必要がなかったともいえます。そうであるならば、その幸せに感謝の念をもっと深くしなければと自戒したことです。

 

 中国残留孤児の現状や、なぜそんなことになったのか、ということを聞けば聞くほど、今の自分とはあまりに遠い話で信じがたいものでした。

 これを小耳に挟んで小説『大地の子』に書き上げた山崎豊子さん。彼女の記念館が満州にあるそうです。

 行くことは、叶いませんが、彼女が小説に仕立てた祈り心を、更には、この年になったからこそ受け取れるものを再確認するために、もう一度読みたい気持ちになっています。

 散会の折に確かめ合ったのは、「平和であってほしい」ということ。誰もが頷いてくれました。