こころあそびの記

日常に小さな感動を

どこまでも青い空から始まる朝でした

 

 お弁当作りのいらない朝だったので、少しだけ寝坊しました。

 外は、天文薄明の時間帯。

 北斗七星は消えて、ベガとアークトゥルスがかろうじて最後の光を下ろしていました。やがて、それらも庭を一周する頃には消え失せて、太陽を待ち受ける空に選手交代です。

 あぁ、朝が始まる。そんな体験からスタートする一日は、健やかが約束されているように思えます。

 

 小さな家庭菜園の支柱に茶色くて小さな小鳥がとまりました。「ヒッヒッ」と鳴いていたこと、尻尾が雀より長いことが、遠目に観察できました。

 ジョウビタキのメスかな?

 過日、千里川で会ったあの子かな?

 そんな勝手な想像も楽しいものです。

 

 それから、梅が満開になったので、やっとメジロが来てくれるようになりました。

 ヒヨに追い出されて、今年は来てくれないのかと案じていたところでしたので、この来訪は大歓迎です。

 慌てて、双眼鏡を持って出て、そのかわいいしぐさを飽きずに眺めたことでした。

 

 

 梅といえば、天神さんです。天神さんといえば、受験です。来年は、受験生の孫とお参りしなくては。

 ところで、天神さんには、必ず臥牛像が奉納されています。

 過日、臂岡神社にお参りしたとき、「菅原道真公は丑年にお生まれになったことから、牛をお祀りすることになりました」と貼り紙をしてくださっていました。

 でもなぜ、臥せた姿の牛なのか。それは、道真公が、納骨に向かう道で牛が止まったところを墓にせよ、と言い遺したからとか。

 その場所が太宰府天満宮のあるところとされています。

 

 さすがに私は町中で牛車が荷物を引っ張っているところは見たことありませんが、戦前までは普通に市内でも見られたと、話には聞いています。

 現在では、その存在が遠くなってしまった牛ですが、古代中国では牛の肩甲骨を占いに使いました。

 また、歴史の授業で必ず出てくる、南フランスのラスコー遺跡や北スペインのアルタミラの遺跡には、牛の絵が描かれています。

 さらに、アフリカのタッシリ・ナジュールの岩の壁画には数多くの牛が5000年を経て、くっきりと残されているといいます。 その絵は何らかの信仰と関係していたのだろうと『信仰とかたち』(森本哲郎著)には、書いてありました。

 仏教でも、禅宗の『十牛図』に見られるように、牛は悟りのシンボルとされています。

 

 牛のどこに神聖さを想わせるものがあるのでしょう。

 

 

 歩みののろさ。少しのことで慌てないしぶとさ。丈夫でよく働くといった持ち味でしょうか。

 牛小屋みたいな、というよくないたとえに使った近代人が、今、考え直さなくてはならないことを牛が教えているようにも思えます。

 何をそんなに慌てているの。ゆっくりでいいんだよ。堂々と生きていったらいいんだよ。と。