なんでもチャレンジャーの私は、我が身を省みることなく、思いつくままにいろんなことに手を出してきました。
が、さすがにこの年になれば、自分の持ち合わせというものに判断がつくようになりまして、自分なりに慎んで居るつもりです。
かつて、絵を描くことにも憧れを持ち、挑戦したことがありました。早々に挫折しましたが、その先生から、昨日、メールをいただきました。
「『千曲川旅情の歌』のブログ、読みましたよ。父の愛唱歌でした。酔いがまわると必ず歌い出しました。子どもだった私たち姉妹も歌っていました。」
島崎藤村がお家の中に居る環境だから、日本画家を生んだのだと納得。しかも、先生は藤村の初恋の人の名前をいただかれています。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
学習のためではなく、こんな歌が生活の一部になっているお家があるのですね。
外からは窺いしれないハイソな家風です。
家族の物語といえば、昨日、福永祐一騎手の引退セレモニーを見ました。
お父様の洋一騎手が落馬されたのは、私が子育て中の27才の時でした。
競馬場に足を運んだこともないのに、彼の闘病はいつも気になることでした。ドキュメンタリー映像が流れる度に、画面に釘付けでした。
当時、奥様の裕美子さんは結婚して三年目。祐一さんとその下の妹さんにも恵まれて、お幸せに突き進むはずでした。
ところが、大事故が運命を変えます。
洋一騎手はお父様お母様が既に亡くなっておられたので、裕美子夫人とそのご両親が洋一騎手の介護を受け持たれたとのことです。
昨日のセレモニーで祐一騎手は「27年という長きに渡った親不孝を終えることができました」と、涙ながらに語りました。
お母様の裕美子さんは、悲惨な事故に巻き込まれた父親と同じ騎手の道に進むと息子から聞いたとき、反対したのは当たり前だったでしょう。
事故から四十年の歳月が流れました。息子の「親不孝ごめん」を、どのように受け止められたことでしょう。
「お父さんの分までありがとう」というお気持ちを察したら、涙が止まりません。
祐一さんはお父様が事故にあった時、2歳でした。お母様は介護に忙しくされていたし、お父様は脳挫傷ですから、お話は叶わなかったはずです。
なのに、騎手を目指したのはなぜでしょう。簡単に父への憧れという一言ではすまされないように思います。
福永祐一騎手がデビューした時、「洋一さんにはお世話になったから」と騎乗依頼が殺到したといいます。
それほど慕われる天才ジョッキーだったお父様のあとを追うことのしんどさを思うだけで、重圧に押しつぶされそうです。
そこを越えて、胸をはれる成績を残して祐一騎手は引退されました。
お疲れ様でした。
こんなドラマチックなご家族のあり方もあるのですね。
これからは、お父様お母様も、ご自身のご家族もゆっくりした時間をお過ごしください。
祐一騎手の引退で、私まで安堵しています。