今、花屋さんの店先を彩っているのは、ミモザです。おしゃれな名前につい買いたくなりますが、家の中に持ち込むのはためらいがあります。
だから、こうやって野外で咲かせてくださっているのはありがたいことです。
たわわな黄色い房から元気をもらって帰ってきました。
昨日の深夜から本日の早朝にかけて、大方の人が眠っている間に、東大寺二月堂においては、「お水取り」が行われました。
はるか福井県小浜市にある神宮寺から送られた水を、東大寺境内の若狭井で汲み上げます。そのお水をご本尊の十一面観音さまにお供えして、国家安泰、五穀豊穣を祈る行事です。
「お水取り」が終われば、関西に春がくる。はずでしたが、今日の北風の冷たさは、膨らみかけた蕾に時間調整という試練を与えたことでしょう。
せめて、来週まで待ってと。
東大寺へは、コロナの影響で足が遠のいていますが、今日からマスク解禁ということでもあり、また、拝みにまいりたいと思います。
その下調べに、西村公朝著『やさしい仏像の見方』を引っ張り出してきました。
釈尊が生まれた時のことから書かれています。
紀元前六世紀に王子として生まれた釈尊は、29歳で出家、35歳で悟り、以後、80歳で亡くなるまで、説法して回りました。
経典は、紀元前一世紀に釈尊の説法を弟子たちがまとめ上げたものです。書かれた教えがあっても、拝む対象がない。そこで、人々のそういう願いに応じて作られたのが仏像です。
釈尊自身は、経典も仏像も作ってはいません。
釈尊は、宇宙のもつ偉大なはたらきのことを仏とよんでいました。
つまり、この宇宙の構成物すべては仏の化身ということです。
誰もが仏というのは真理ですが、この世に独りで存在できるわけではないのも事実です。
土という仏からできた葉っぱ。その命の犠牲によって、私たちは生きている(西村公朝さんの解説)。
助けてもらわないと生きていけない仏。それが私たちです。
どうしてこんなにたくさんの仏に分かれているのかというと、助けてくださる場面が違うから、たくさんに分かれた仏がいらっしゃるそうです。
その仏の世界を宇宙という無限大に現したものが曼荼羅図です。
平面に描かれた曼荼羅図も美しいですが、自然の中の立体曼荼羅の方が凡人には分かりやすいように思われます。
山の中で、木々と空に囲まれているとき、浄化されているなぁと感じます。その実感は木や土や空という仏のおかげなのでしょう。
そういえば、富山県の立山に行ったとき、弥陀が原から見える山の名前を興味深く聞きました。大日岳とか薬師岳とか。
自然に溶け込んで曼荼羅の一員になることで、意識しないのに幸福感が残ります。いのちが喜んでいるのでしょうか。
昨夜の、WBCのグラウンドに配置されたお一人おひとりも曼荼羅に見えました。
試合を戦うのは「慈」という父親の強さ。チームの和気は「悲」という母親の優しさ。
彼らは、現代に選ばれし修行僧であることは確かです。