私の大切なお友達に、信子さんがおられます。
“ニンベンに言う“という字。言行一致の真を表す「信」という字をうらやましく思って見ています。
この命名には秘話があると、いつか聞いたことがありましたのに、うかうかと聞き流していたので、先日もう一度しっかりお尋ねしました。
それは、親鸞さんのお名前から採られたところまでは覚えていたような。
親鸞さんは、法名を「範宴」、「綽空」、「善信」と変えておられます。
最後までお使いになったお名前が「善信」で、これは、法然の著した『選択本願念仏集』を善く信じる者であり続けるという覚悟を表すものだそうです。
彼女のお兄様が「善」、彼女は「信」をいただかれたそうですが、それを望まれたのが、信心深いおじい様だったと聞けば、お家の雰囲気が伝わってくるようです。
そんなことから、何となく、『出家とその弟子』(倉田百三著)を出してきて、読み返す時間を得ました。
五十年前のその本は、当時280円でした。印刷技術も今のように均一ではありませんが、そこにこの本の値打ちがあるように思って捨てられずにいるのです。
この世の波にたゆたいながら、それでも、祈りに生きることを目指した親鸞でした。
まっすぐな心でひとすじに生きたなら、いかなる悪人も救われると説きました。
「愛」について、多くを割いています。
純粋な愛がストレートに成就することを阻むところが、現世であります。
業因縁など、やっかみやうらみや妬みが渦巻く世界は不自由なところです。
それでも、親鸞は、純な青年期を送ってほしいと念じています。そうでなければ、深い老年期を過ごすことができないというのです。
そして、自分の魂の本願を押し殺すことが、一番罪深いこと。
その願いと繋がるために、祈りがあり、祈ることで我が運命を呼び覚ますことができると記されていました。
こういう本を、窓の外の鳥の声を聞きながら読む昼下がりもいいものです。
自分の魂が喜んでいる気がしました。