雨の中で迎える満開の桜。
いつもこうなんだからと近寄ってみたら、ひとつひとつの花びらに水滴がついて、それはそれで風情がありました。
それでもやっぱり、青空をバックに淡い色合いの桜花を撮ってみたい。誰もが名カメラマンになれるチャンスです。
桜だって、せっかく一年の準備期間に耐えて咲いたのですから、一人でもたくさんの人に見てもらいたいはずです。
明日は晴れますように。
ミツマタが咲いていました。
ボケが満開です。
昨日、車の運転をしていたら、どうも前が見づらくて、いゃだなぁ、白内障?緑内障?と思ってしまいました。
家に帰って、孫に尋ねたら、彼も朝から鼻水が酷くて、大変な一日だったと話してくれました。
やっぱり犯人はアレだったのです。
緑内障がひどくなったのではないことが分かって安心しました。
というのも、私、視野の欠けたところがあります。
数年前、流行っているけど順番待ちの少ない眼科さんを、娘に教えてもらって受診したことがあります。
「いややなぁ。薬剤師は嫌いや。いうこときけへんから。」と、先生。
私はニヤニヤ。
「まぁ、あと二十年もったらええんやから。私のいうこときくか?」
という条件を出されて、ハイと返事したものの、結局、その後間もなく、閉院されてしまったので、なんの治療もせず、今に至っています。
どこかに弱みを持つことは、いいことだと、思っています。
そのこころは、感謝の数が増えるからです。
朝、起きて、目が見える。今日も見えてる。それが当たり前じゃないことを、正常時よりも深く感謝できます。
それが老年のありがたさだと感じています。
老子の”無為“に触れ、「人類を悩ますあらゆる災禍は、人間が必要なことを為すのを怠ることから生ずるのではなく、かえって、さまざまな不必要なことを為すところから生じている。」と、トルストイが書いているそうです。
そのようにトルストイにも影響を与えた、紀元前の老子という哲人が考えた生き方は、今も悩める現代人を支え続けています。
「形なきものの形をじっと見すえ、声なきものの声にじっと耳をすますとき、人間が本当の意味で生きるとはどのようなことであるのかが明らかになる」(福永光司著『老子』より)と。
みんなで渡れば怖くない。
ではなくて、自分はどう生きたいかを選べる時代になっています。