モンシロチョウがブロッコリーの葉っぱに卵を産みに来ています。
この葉っぱが十字植物とわかること、彼らに与えられた不思議な力を感じないではおれません。
黄色とは、よほど強い遺伝子を持つもののようです。
どこを見ても春の盛りです。
朝、新聞を取りに出たら、うぐいすが長鳴きを聞かせてくれました。
「ホーホケキョ、ケキョケキョ・・・」と、「ケキョケキョ」が数十秒続いて、真似をしていたこちらの息が切れてしまったくらいです。
なんでも、ものの本によりますと、「ホー」は吸気で、「ホケキョ」は呼気だそうですから、鶯はロングブレスの達人ですね。
ウグイスは夏鳥というより、近年は留鳥となり、私達のそばで越年しているといわれています。
「うちに住み着いているうぐいすは、試し鳴きせずに初めから『ホーホケキョ』と鳴くんですよ」と、話してくださった方がありました。
自然の法則は、万古不易ではなく修正を加えながら、しかも統一感を崩さないところがすごいところです。
「鶯」。この小さな鳥の鳴き声は、万葉の昔から春の到来の知らせとされてきました。
春の初めは、雪と共に詠まれます。
梅が枝に鳴きて移ろふ鶯の
羽白妙に沫雪そ降る
やがて、雪が溶け、梅の花が散って春爛漫の桜のシーズンになり、その花が終われば、あんなに待ち遠しかった春を、今度は惜しむ気持ちになってきます。”惜しむ”ならいいのですが、追いやる気持ちは勝手に過ぎるようです。
かの清少納言など、いつまでも鶯が鳴くことに不満を漏らすほどです。夏秋に鳴く鶯なんて、いただけないと。
確かに、春告鳥として、あの節回しを春先に聞くときほど、心に沁みる瞬間はありません。だからといって、人間の勝手な思い入れで、もうたくさんとは憐れです。
今年も鳴き声を聞かせに来てくれてありがとう。来年もお願いします。
ところで、今日も、スキッと見えない遠景に愁う気持ちを持たれた方がいらっしゃることでしょう。
春は相反する二つの感情が生まれる季節です。希望という前向きな感情と、もう一方では霞の中で自分の立ち位置の不確かさを感じる方もあるでしょう。
大伴家持の詠んだ「春愁三首」は、大正時代に窪田空穂によって発見、評価されるようになったそうです。
それまでの学者には、見過ごされていた歌だったのです。
空穂は、春の物憂い感覚を、言葉で表現したところが新鮮であると評しました。
春の野に霞たなびきうら悲し
この夕影に鶯鳴くも
わが宿のいささ群竹吹く風の
音のかそけきこの夕べかも
うらうらに照れる春日にひばり上がり
心悲しもひとりしか思えば
越中に赴任した青年の孤独な悲哀が見て取れます。
富山の清冽さが、家持の孤独を助長したのではないかとも思ったりします。
人は、同じ風景の中に立っても、その時々の気分で感じるところは違ってくるものです。
家持ほどの苦悩を背負っていない私ですから、できることなら、春、明るい、うらら、新鮮、優しい、生まれる・・と、どこまでも希望に向かって愚鈍でありたいと念じます。