芽吹いたばかりの銀杏の葉が、校内の中庭の一角で夕陽を浴びて、たてたばかりのお抹茶泡のように輝いて見えました。
昨日の続きです。
何年か前に大形先生を紹介されたとき、どんな研究をされているのかなと検索したところ、『魂のありか』というご本が出てきました。
うれしくて、早速に取り寄せて読んだことを、懐かしく思います。
昨日、この本に沿って今年度前半の授業が進められると知りました。
内容を深く堀り下げて、直に解説いただけるとはありがたいことです。思い違いを正せるチャンス到来です。
中国哲学を老年に学ぶことは、生きる意味の探求に繋がると思っています。
「魂」があるかないか。
どちらを信じますか?
「魂」という字のツクリである「鬼」は、漢和辞典では、「人が大きな面を被って死者の霊魂にふんするさまにより、神霊の意を表す」と説明されています。
さらに、「云」は「めぐりあるく意→運」。
大形先生がよくおっしゃるように、人の生活が先にあって、後で文字ができたとするなら、昔の人にも「魂」は、あやふやながら信じられていたのではないでしょうか。
そんなことから、死後はどうなるかということは永遠のテーマであります。
戦争を経験して、何もかもなくした人の中には、無神論を唱える人がいます。
うちの父もそうでした。
「神も仏もあるもんか」とか、「死んだら消えてしまう」などと、言って憚ることのない人でした。
それなのに、お寺さんが仏壇の前であげてくださる「正信偈」に、抑揚を合わせることができるのです。
宗教というのは、究極のところ、死んだらどうなるかという不安を解消するもためのでものだと思います。
そして、安心して過ごすために、現世でどう生きるかを示すものでもあります。
弘法大師が死者への追悼の意味を次のように云っています。
現世に遺された者が善行を積めば、その功徳が巡り巡って亡き人を成仏させ、それによって、遺された者の心の傷みも和らぐと。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」。
西洋の人でさえ、肉体だけではなく、その入れ物のなかに精神があると認めているのです。
その精神のことを、東洋人は「魂」と考えました。そして、その「魂」の消滅こそが死だったのです。
ですから、あらゆる手段で「魂」が消えてしまうことを阻止した。それが、哲学を生んだといえます。
人が考えることは、宗教、哲学を問わず、同じところに出所がある面白さを感じます。
これから学ぶ『魂のありか』。
昔の人と同じ目線で拝聴したいと思います。