雨の日曜日。
ゴールデンウイークの間、こらえてくれた雨です。本日は恵みの休養日といたしましょう。
静かに落ちる雨音はそれだけで気持ちを鎮めてくれます。ゆったりと身をあずけて過ごしたい一日です。
が、それを満喫できるのは年寄りだけの特権というもの。
子育て最中の家人たちには、とてもそんな余裕はないようで、リビングから聞こえてくるのは、受験期の孫たちへの叱咤激励です。
そんな様子を窺いながら、自分自身も受験を控えた子どもたちと過ごした嵐のような日々を思い出しました。できることなら、自分が代わりに走ってやりたいと幾度思ったことでしょう。
「いいなぁ。~君はよくできるから」というのは、浅はかな言葉です。
「その子なりに、みんなしんどいやよ」。
受験生のいる家庭は、どこも緊張の解けることがない一年を過ごします。
通り過ぎた今、思うことは、なるようにしかならないということ。そして、すべてはどなたかのお導き通りに運ばれていくこと。そんなことを学んだ気がします。
ということは、要らない経験はなくて、どんなことにも意味があるという言葉が浮かんできます。子育てほど、自分を育てることのできる経験はありません。得難い日々でした。
娘家族にとって、今から数年間は子育ての最終コーナーです。無理をせず、なんとか無事に走り抜けて欲しいと願って見ています。
忙しい孫たちに比べて、私の頃は塾などない暢気な時代でした。
高校受験が迫る頃。私の成績を案じて、母が探してくれた英語の先生にお世話になったことがありました。
一教科がんばれば、その他の教科も底上げできるからと励ましてくださって、夜間でも、電話で授業をしてくださることも度々でした。
あの先生には預かったかぎりは責任を持つという気概がありました。その緊張感が生徒に伝わって、いい循環ができあがっていたのだと思います。
せっかくの熱血指導を、その後、生かすことも出来ずじまいになり、申し訳ないことをしたという悔いは心に刺さったままです。
ひとりの生徒を預かるということが、どういうことなのか。昔の師弟愛が生まれた理由は何なのか。
子どもたちに沁みるメッセージは、先生の奮闘ぶり以外の何ものでもないことは、今も昔も変わらないかもしれません。
ところで、恩師のお宅の横を通るたびに、なんと意気地なしなんだろうと自分を恥ずかしく思います。
というのは、あれだけお世話になったのに、多忙を理由に足が遠のいてしまっているのです。ご無沙汰が過ぎて、呼び鈴を押そうとすると手が震えます。
雨音で心が耕されたのか、ひさしぶりに、教師の矜持を持った先生のことを懐かしむ心境になりました。
次に通る時には、勇気を奮って呼び鈴をそっと押してみたいと、密に誓っています。