躑躅(つつじ)が終わり、入れ替わるように皐(さつき)が咲き始めました。
躑躅よりも少し小さめの花が低い木を覆うように咲くところがかわいいです。加えて、躑躅より豊富な花色も魅力の一つです。
先日、当帰芍薬散の「当帰」の由来を書きました。
「当(まさに)帰(かえる)」と。
帰る家が嫁に入った先とは、女の歴史を感じることでした。
これを、聴講時に話したら、いろんな説が噴出しました。
①地名説
甘粛省の当帰の主産地が、唐の時代は当州と呼ばれていた。
②発音説
帰(qi)と同じ発音の香草(qi)があった。
③「本草綱目」説
当帰は婦人の要薬。女の病は夫に関わりある。夫に帰ってきて欲しいから当帰。
④「三国演義」説
母親が息子に会いたくて、手紙に当帰を入れたという話しがある。
⑤映画説
妻が夫に帰ってきてほしくて当帰で自分の思いを伝えるというシーンがあった。
などなど、“当帰”をふったばっかりに、学生さんのお手を煩わしてしまいました。
それから、私のうろ覚え、「当に帰る」は漢文的に間違いで、正しくは「当に帰るべし」と読むと指摘されました。
訂正して、お詫び申し上げます。
それにしても、なんと奥の深い分野なのでしょう。
中国哲学のなんたるかも調べずに、聴講し始めたので、あらためて調べてみました。
「哲学とは、古今東西の哲学者がさんざん考え抜いてきたことを、これ以上考えてもしょうがないところまで考えること。
それには、千里の道を行く気概が必要であり、先人の業績を原典で読むことが、不可欠。」らしいです。
漢文がチンプンカンプンの私は、そこでアウトです。
昔は、原典を一つ一つ解読することから始めなければなりませんでした。時間がいくらあっても足りなかったことでしょう。
あそこに書いてあったはずという検索は自分の勉強量に比例したことは歴然です。
今も、勉強量は変わりはありませんが、近年、検索にPCを使えるようになりました。
それでも、『説文解字』や『四庫文書』など、漢字しか並んでない文書を研究する人の根気には、感服しかありません。
時々、授業で教えてもらった漢字の成り立ちを家人に披露することがあります。
「へぇー、そんなことも勉強してるの?」という反応がうれしくて、来週も頑張ろうと思ってしまいます。