こころあそびの記

日常に小さな感動を

「芒種」

 

 今日から二十四節気の「芒種」に入りました。

 “芒”とは、稲など実に針状の芒(のぎ)がある穀物のこと。その種を撒く時期がやってきたことを教えています。

 また、七十二候は「蟷螂生」(かまきり現る)です。

 あと二週間で夏至になることを感じて、動植物は急いで動き始めているように見えます。夏は意外に短いことを、彼らは知っているのかも。

 

 

 玄関の壁に、オオスカシバがとまったのは二、三日前のこと。

 家に入ろうとしたとき、ブーンと目の前に飛び込んできて、その後、壁に止まりました。

 今、土の中から這いだしてきたばかりのようです。

 何でそんなことを知ってるかというと、なんでもやってみたがりの娘が、育ててみようと盥に土を入れて、その中に蛹を埋めたことがあったからです。

 残念なことに大雨で盥が水浸しになってしまいまして、落胆したのは去年のこと。

 庭のどこかで生きていたのは、わが家の一本のクチナシを好いて離れられなかったからでしょうか。

 

 この子は色から察するに、羽化するところのようです。今から、羽の鱗粉を払い、おなかの色を鮮やかな赤に変えていきます。

 それは、天敵である鳥や他の昆虫から身を守るための警戒色なのだとか。

 ともあれ、緑色と赤色をもつ美しい虫が、今年も庭に現れたことを、娘と一緒に喜びあったことです。

 

 

 先日、水月公園に行ったことを、大形先生のグループラインに載せましたところ、「齋芳亭」に掲げられてある詩の解説をいただきました。

 大まかなことは、庭園内の案内板に書いてありましたが、漢文に疎い私には、わからないことばかりです。

 それを嘆いて、“菖蒲園を歩くにも教養が必要ですね”と、ラインに投稿したのです。

 そしたら、この詩が元になっているのではないですか?というご意見を寄せてくださった研究者がありました。

 それは、唐文学の創始者である王勃が書いた『滕王閣序』にある駢文です。

 「落霞与孤鶩斉飛

   秋水共長天一色」

 (落霞 孤鶩と齋しく飛び

   秋水長天と共に一色)

 

 『滕王閣序』は、奈良の正倉院にその写本が所蔵されているといいます。はるか昔に生きた人の息吹きが、身近な水月公園に漂っているなんて。

 

 詩の意味が分かれば満足してお終いという稚拙な私ですから、今までは、その先があることなど、知り得ないことでした。

 ところが、今は、こうして石ころ一つ投げたら、反響が返ってくるようになったことは幸せなことです。

 

 

 何かに接するとき、その人の感じている奥行きは千差万別であります。そのことを理解するためにも、視野は広げておく価値があると思います。

 

 授業を聴講するに当たって、先生に「何をしたらいいですか?」とお尋ねしたことがあります。

 「ただ聴いてたらよろしい」とお応えくださったのは、こういうことだったのだったのです。

 つまり、その場に身を置いておれば、否が応でも、雰囲気に染まっていきます。その第一歩が大切だったのです。

 今さら、学びを深める気持ちはありません。ただ知らない世界があることを知ることが喜びなのです。

 

 ちなみに、「齋芳亭」の”齋芳“は、「媲美齋芳」(美しく共に芳しい)からとられています。

 このように、たくさんの学びが転がっている水月公園が近くにあること。それも幸せの一つです。