こころあそびの記

日常に小さな感動を

小満

 

 二十四節気小満』を迎えました。文句なしの青空のもと、動き出したトラクターを見かけるだけで元気になれます。

 太陽がぐんぐん力を増して、汗ばむほどでしたから、日除け代わりに巻いているスカーフを外したら、爽やかな風が首すじをすり抜けていきました。

 秋がどんなに美しくても、この薫風だけは今しか感じられない、今限定の風です。

 

 

 娘のお気に入りのため、抜かずにいたら、庭じゅうニワゼキショウだらけになってしまいました。

 確かに一輪一輪、小さいながらも完成されたお花です。風にそよぐ花々を踏まないように歩いています。

 

 

 さて、私の好物の新生姜が最盛期になって店頭に並んでいます。

 庖丁を入れた時、スッと切れるものが、性がいいのに当たった。と言えるわけですが、今年はいまのところ、性のいい子に巡り合っていません。

 

 それは、ひょっとしたら、神様の思し召しかと思ったり。

 というのは、以前に食べ過ぎて麦粒腫ができたことがあったからです。生姜の強い性に負けたのでしょう。

 そして、今年も、私の顔面には怪しげな出来物がありまして、そんなときだから、食べ過ぎるべからずと、神様にブレーキかけられているのでしょうか。

 

 

 「性」(しょう)。 

 人間ならば、その人に生まれつき備わっている性質のこと。物なら、その物の本来の性質です。

 生姜の性が変わらないように、生まれつきの人間性も、深い深いところでは変わらないと思ってみています。

 

 昨夜、河村名古屋市長の独演会をたまたまYouTubeで見ました。

 あの強烈な名古屋弁を受け入れられるかどうかは別として、彼の生まれつきを観察できて面白かったです。

 清濁併せ呑んでも、汚染されない人と、汚濁にまみれてしまう人がいるのはなぜでしょう。

 それを決めるのが「性」で、育ちで変えることのできないものです。

 連日、報じられる政治家の「性」。

 どこまでを許容したらよいのか、分からなくなっている自分がいます。

 そうそう、河村名古屋市長は「性」よしでしたよ。