昔々、恥ずかしながら、私が結婚の条件にあげたキーワードは「田舎」でした。
昨日会った男の子たちのように、自然と遊べる子どもに育って欲しいという願いがあったのです。
その結果は没。母親が町育ちですから彼らのように田舎を楽しめなかったのは分かり切ったこと。それでも、三人三様に自然と遊ぶことに抵抗はなさそうで、そんな彼らを見ると初期の願いが報われた思いがします。
ところで、畑の中で腰をかがめて細かい作業をされている方を見かけますと、自分にはできないと嘆息が漏れます。農耕民族の末裔のはずなのに、運動音痴で体が思うようには動かないのはなぜかと悲しくなります。
そんな自分がなぜ、田舎への憧れを抱き続けてしまうのか。
それは、そこが、心地よいからに他なりません。
知者は水を、仁者は山をと、古人がいったように、山川はそこに身を置くだけで、人間をもとの姿にもどすように働きかけます。
有名な李白の『望廬山瀑布』。
三千尺落ちてくる瀑布を見ていると「疑是銀河落九天」(疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと)という気分になった、というのは、大げさと言う向きもありましょうが、自然と一体になったときの感慨として、全うなものとこの年の私は感じます。
滝といえば、箕面大滝にも名句があります。
「滝の上に水現れて落ちにけり
後藤夜半」
瀑布を遠くから見ていたのではなく、近付いて一滴一滴を見たから生まれた一句かと思うと、豪快な李白に比べて彼の観察眼が日本人らしい繊細さを持っていたといえましょう。
また、田園に憧れた自由人といわれる陶淵明の『園田の居に帰る』は、田舎のありふれた景色に、人間の生きる真理があってそれを説明する言葉さえ浮かばない、と謳っています。
難しい漢詩の中に、共感できることある。それを見つけたときにささやかな幸せを感じます。
さらには、ベートーベンの交響曲第6番『田園』。
森に入ると幸福な気持ちになるのは、樹木が語り掛けてくれるからだと、彼は感じていたとWikiに記されていました。
そんな彼が生み出した『田園』は、普遍的な田舎の風景を思わせます。
田舎に着いたときの解放された愉快な気持ち。小川の水の流れ。人々の優しさ。激しい雷雨。嵐のあとの牧歌的な雰囲気。
万人にこの曲が好まれるのは、「田舎」が舞台だからでしょう。
古今東西、「田舎」があるから、人間は生きてこられました。食物庫というだけではありません。そこには、見えない何かがあります。いのちの根源を見失いそうになったら是非訪れてほしい場所です。
それは、田舎を模倣した街にはない本物の壮大さと清明さを蔵しています。
病みそうになったとき、いろいろ屁理屈をいう前に、田舎に行けば蘇ることでしょう。開放感が脳波を正常にもどすことは、森田、西田療法など古くからいわれてきたこと。今も昔も、自然に癒されるのは、人間が自然の一員だからというひとことに尽きます。