
先日、上六の近鉄百貨店に行ったとき、生国魂神社(いくたまじんじゃ)の夏祭りを知らせる紺色の幟が上町筋にはためいているのを目にして寄りたくなったのは、この神社の氏子範囲に南大江小学校が入っていた記憶があるからです。
この神社の拝殿の後方、西側にはお寺が集った谷町筋があります。そこに相撲部屋が泊まるから推しのことをタニマチと云うようになったとか。その筋に出るには、神社から随分と階段を下らねばなりません。
いわゆる上町台地が大阪城から南へ細く延びていることが、この神社に参ると分かります。
つまり、この上町台地の西側はかっては海でした。
だから摂津一宮の住吉さんは海に面した海上交通の守り神ですし、私の母校の南大江小学校の大江という地名も入江だったからついた名前です。
さて、その大阪が茅渟の海だったのは、いつの頃までだったのでしょう。
そのヒントが、うちの近くにある学校の坂道の途中にある掲示板に「ここは、60万年前は海でした」と書かれていて興味深く見ています。
そこに立って、北側の箕面の山並みを見ると、ちょうど中腹あたりと同じ高さですから、箕面の滝道から貝塚が発掘されたという事実に合致しています。
それから、悠久の時が流れ、陸地になったから人が住めるようになった。そこに、やれ文化だ、やれ共生だと、わかったようなことを言って、生活を謳歌しているのが、私達です。
海だった時間のほうが長いのに・・・

なんで、こんな長い前置きになったかというと、今朝のNHK朝ドラ『虎に翼』で、調停員という、懐かしい言葉が出てきたからです。
普通の人には解説が要りましょうが、私にとっては幼稚園のときから耳に馴染んだ言葉です。
お世話になった調停員の先生に、初めてお目にかかったのは私が結婚する少し前のことでした。
先生のお宅は堺市の上野芝にありました。
堺の海岸は、コンビナートに誘致される前は、白砂青松の別荘地でした。
浜寺、上野芝もそんなところだったと聞いています。

生まれてこの方、お会いしたことがないのに、お宅訪問させようとしたのは母に思うところがあったのかもしれません。
今となっては二人の思惑は知る由もありません。
ただ、先生が私の気持ちをよく理解されていて、会話の中で何度かお互いに涙ぐんだことは覚えています。
生きていくということは、たくさんの人に支えられてのこと。
幼稚園児の両親の離婚を思いとどまらせようとして下さったから、その後、困難続きとはいえ、なんとか生きてこられました。
それは、ひとえに、先生がこの子(私)を守ってやらねばと考えて下さったからです。
調停員。その言葉を聞いて、久しぶりに幼かった自分を思い出したことです。
先生、ありがとうございました。