今日は七日だから龍安寺の護摩焚きの日。日曜日と重なってラッキー。
そうとだけ思って受付で護摩木を記入して、行者堂に急ぎましたら、なんと、屋外に護摩檀が組まれて、その周りにはすでに大勢お集まりでした。
そこで初めて、今日は役行者のご命日供養だから、大護摩を焚くことに気がつきました。
いい日にお誘いいただいたことに感謝です。
ここの大護摩供は正統です。それは、役行者がこの箕面を開山して悟道したこと、そして、このお寺の奥の院、天上が岳で昇天したとなど、箕面と縁が深いからでしょう。
中央の赤い傘の下に控えておられるのが、聖護院門跡です。日々の禊ぎのご様子が、すがすがしいお顔に見てとれたことはありがたいことでした。
舞い上がる炎を見ながら、西畑清順さんのInstagramの言葉を思い出していました。
それは、どこかの高校生にお話したことが書かれていました。
「『自然との共生』みたいな西洋かぶれした感覚じゃなくて、俺たち日本人は古くから自然は他者ではない。人間は自然の一部なんだと捉えてきた」
彼の文章力に脱帽してしまいました。
私がいつも想っていることと同じですのに、私じゃ伝わらない。
彼のこういう活動がどんどん花開いていってほしいと切に願っています。
閑話休題。
大護摩供の行われているそばの滝道を、「キャンプファイヤーみたい」と通っていく若者たちがいました。
いやいや、自分たちの持つ邪気を、この天まで舞い上がる炎で消滅させることを願う行事なんですけど。
同じように、昨日読んだ『山椒大夫』に出てくる主人公たちの経験も、今の子どもたちにはわからないのではないかと危惧したことです。
私が子どものころは、人さらいに遭って売り飛ばされるから早く帰りなさい、とか、お天道様が見てはるから、そんなことしてたら罰が当たるという戒めを、毎日のように親から聞かされたものです。
人さらいも、バチも、死語となった今、子どもたちを導く手だてはあるのでしょうか。
野放図に育てる。それが自由と勘違いされたら、大きくなって困るのは子どもたちです。
だからといって、西洋の言葉でごまかすのはいただけません。
この国の民に相応しい教えは、清順さんのいわれる、「私たちは自然の一部であること」です。
そして、その元になる思想は、山川草木を神と崇めた先人の姿勢を知ることにあります。古事記や日本書紀に出てくる神々が、それを教えています。
海にはわだつみの神様がおられる。
山にはおおやまつみの神様がおられる。
これらは、自然と共に生きるために先人が考え出した知恵ではないかと、思ったりします。
科学万能に世の中にあっては、なんでもできるという考えに陥りがちです。
自然に対する畏敬の念。
それが、護摩を焚く修験者の思いではないでしょうか。