毎朝、大声で起こされる孫なのに、今朝は自ら四時に起き出して、なにやら準備中。と思ったら、やっぱりUSJ行きでした。
何が何でもやりたいことがあれば、子どもでさえ変われるのに、老境にある自分には、これほどのパワーが持てません。悲しいかな、人生の旅を一巡りした者の景色は色褪せています。
始発に乗ると出て行った子どもを見送った空に、ちょうど、有明の月が浮かんでいました。
昨夜の月は月齢17.2の立待月です。
月の右側が少し欠けているようですが、まだ満月から三日目です。
夏の間、夜明けが早くて、見る機会がなかった朝の残月。いまからの半年が、観望のシーズンになります。
早朝の漆黒の空に輝く月と対面すると、自分の中の深いところから思いが噴き出してきます。その思いは、大空間に広がって、繋がっていきます。
なぜか、今、生きている実感と、昔、生きていた郷愁がまい混ぜになる時間でもあります。
源氏物語帚木の巻に、
「月は有明にて光をさまれるものから 影さやかに見えてなかなかをかしき曙なり」と認めてあります。
ここに登場する空蝉は、紫式部の写しという話もありまして、興味深いところです。
『光る君へ』の中でも、道長と紫式部に、たとえ離れていても、同じ月を見上げることによって思いを通わせるシーンが象徴的に使われています。
帚木の巻に書かれている月にまつわる紫式部の思いに共感します。
「空に心はないはずなのに、見る人によって、優雅にも寒々しくも見える」
“寄り添う”という言葉が易々しく使われる現代ですが、本当に寄り添って心を癒やしたり励ましたりしてくれるのは、自然の力です。
ただ、こちらがそういう思いになったときにしか、応えてくれません。自然に心を合わせられる自分になれるかどうか、それを目指すのも人生です。
さて、降るか降らないか。一日中、降雨を待ち続けましたが、結局、大きな雨粒の一滴しか降ってくれませんでした。
家庭菜園も庭の木々も待ってます。
降雨の神様、どうか、雨を降らせて下さい。現在、大雨に見舞われている地方の方々ごめんなさい。