こころあそびの記

日常に小さな感動を

されど半日

 

 あの美しい日に、元伊勢神宮にお参りすることが叶ったことは、奇跡に思われます。それが、朝の思いつきから始まったことであることからして嘘のようです。

 たった半日の経験が、いかに多くのことを私に考えさせることでしょう。

 今回は、天の岩戸神社での出会いを回想します。

 

 

 元伊勢神社内宮(ないく)の奥に、天の岩戸神社が鎮座されているのですが、舗装道路から下りていく階段は急です。

 そこでも、また例の彼は泣き言を漏らします。「なんで、石段を整えてくれないのかな」なんて。

 大昔から崇敬者が下りたと思われる石段のの不規則さは当時のままでした。

 

 

 やっとの思いでたどり着いた社殿です。

 横の岩の上に鎖が垂れているのが見えますか?ロッククライミングをここでするとは思いも寄らないことでした。

 当然、私はパス。彼が登り始めたのはよかったのですが・・

 

 

 私たち二人しかいない山峡に、突然、一人の男性が下りてこられました。聞けば、四国八十八カ所プラス二十カ所=百八カ所(煩悩数)を既に二周されているとか。

 私のお連れの男性が、鎖登りに疲れ果ててへたり込んでいるのを横目に、すいすいお参りして、先に行ってしまわれました。

 空海がそうであったように、巡礼ができる足腰に生まれついたことには深い意味があるのでしょう。

 何を持って生まれるか。

 そこに、神さまからの宿題が隠されているように思われてなりません。

 

 

 座り込んだお連れの顔から魂が完全に失せています。鎖詣りは、彼には相当にきつかったようです。

 「大丈夫です」という弱々しい声にも、本心でないことが察せられるほどでした。

 と、言いながらも、本数の限られた帰りの電車のことが気になって、ゆるゆると出発せざるを得ない状況でした。

 

 

 丹後鉄道は単線です。

 電車が早めに来たのは、すれ違い駅だったためでした。

 良かった。クーラーの効いた車内に少しでも早く入れてもらえたら、彼の熱中症も快方に向かうはずです。

 その期待通り、福知山駅に到着したときのお顔は、すっかり生気を取り戻した様子で、安心してお別れできたことでした。

 

 たかが半日、されど半日。

 この日のことは、阿頼耶識にしっかり刻まれることでしょう。

 何が?ではなくて、自分でも気づいていないような六感で感じたことが、後世に生きてくるように思います。有り難いお詣りでした。