こころあそびの記

日常に小さな感動を

風の音

 

 こないだ、元伊勢で出会った男性に指摘を受けたこと、今でも私としたことがと、思い出すたびに恥かしい気がします。

 「青い空も白い雲も気持ちいいですね」と私が言ったら、彼が、

 「風の音もね」と付け加えてくれたのには驚きました。

 目に見えるものの中に夏を探そうという浅ましさを見すかされたように思えたのです。

 そのとおり。自然と一体になりきれていない自分を反省したことです。

 

 

 さて、本日、家族が出はらって静かになった部屋で、ようやく『空海の風景』を読了することができました。

 司馬遼太郎さんの綿密な取材による空海の見たであろう風景が描かれています。

 なぜ、空海と名乗ったのか。

 それは、彼が感応した室戸岬の洞窟から見えた空と海に感銘を受けたところから名付けたとされます。

 その時点で、すでに、自然との一体化を根本にする密教に魅力を感じる体質だったことが分かります。

 

 

 ところで、図書館から借りてきた本ですが、どなたかからの寄贈本だったのか、ところどころに鉛筆でラインが入っていました。びっくりしたのは、赤線です。

 それは、空海の筆跡についての稿でした。空海といえば、「弘法にも筆のあやまり」と、密教以上に書法で名を残していますから、誰でも、ここは、赤線を引きたくなるところだったのでしょう。

 随分前、観光気分で写経をして回っていた頃に、どこかのお寺の写経見本で空海の字を集字したものがありました。

 今、そのお寺を探したのですが、見つかりません。もし、ご存知の方おありでしたら教えてくださいませ。

 篆書、隷書、草書、行書、楷書、飛白書なとが散りばめられているものでした。

 能書力が並外れていることを証明するものですが、これも凡人に言わせれば、過去生で修行した別格の人と思わざるを得ないわけで・・

 最澄に宛てた手紙とされる『風信帖』など見飽きない美しさです。

 司馬遼太郎さんもいろいろと、最澄との関係を探っておられますが、結局のところ、二人は魂を磨きあう仲であっても、睦み合う関係にはなれない星だったようです。

 普通、そういう人とはすれ違うものですが、最高位に上る人達の修行は、どこまでも相対する厳しさが用意されていたものと思われます。

 

 

 本の中で、司馬さんが吉野から高野山まで夜間に歩いたというところに、一番興味をそそられたと言ったら、彼に叱られますでしょうか。

 先日、奈良八木から十津川を経て新宮まで走っている、日本一長い路線バスを見つけたばかりの私は、この一文で背中を押されてしまいました。

 ゲートインした競走馬状態で、涼しくなるのを待っています。