8月24日は地蔵盆です。
通りかかったお地蔵さんには、提灯やお供え物が準備されて、地域の方々のお心がうれしいことでした。いつまでも受け継がれますように。
今日は上六に行く日です。孫たちのお弁当作りに手間取って、出発が遅くなってしまったので、大阪城は諦めて、空堀から歩くことにしました。
迷路のように古い家屋が残っている町を抜けて、谷町へ。
谷町四丁目の交差点に、手書きの法語を掲げたお寺がありました。
近頃、見かけることが少なくなった住職さんの手書きと、この分かりやすい内容と。歩いた甲斐があるというものです。
こんなのもありました。
この真ん中の仏画は見覚えないですか?小さく「公朝」とあります。
そう、西村公朝さんの絵です。
二つの法語に、すっかり気分をよくして大形先生の『荘子』講義に向かいました。
『荘子』は、もう何年も拝聴しているのに、今一つわからないところがありました。
それは、それぞれの寓話が取り留めのないものだから、荘子自身が何を訴えたくて書き残したのかというところが分からなくて、混乱するばかりでした。
その疑問が初めて解けました。
荘子は、孔子のように世間に広く知らしめたいという意図はまったくなく、友達に話すように書いているそうです。
それなら、中身は軽薄かといえば、そうではなくて、彼の考える死生観が織り込まれているところが、『荘子』の人気のひみつです。
彼の死生観が好きでしたのに、なんでこんなややこしい話ばかりするんだろうと思っていた私の疑問は解けました。
彼は、恵子(友人)に話すように書いていたのです。
この書き方って、先日の紫式部と似ていませんか。
一条天皇に書いて差し上げる。その気持ちが沸騰して、天から神(紙)が舞い降りてきたシーン。よかったですね。
ひょっとして、荘子も。いやいや、彼は男ですから、何か世間に提言したかったはずです。
一緒にはできないけれど、話の作り方が似てるかも。そう思うことで、これからの『荘子』の読み方が変わるような気がして、この大発見がうれしいことでした。