ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら日が沈む
まっかっかっか空の雲
みんなのお顔もまっかっかっか
ぎんぎんぎらぎら日が沈む
きのうは日没の時刻前に家を出たので、タイミングよく真っ赤な夕日に会えました。
口をついて出てくる童謡の歌詞。近頃は、こんな歌を小学校で習わないらしくて、私が歌うと孫たちに笑わるのですが。
でも、これほど実際の情景通りの歌もないと思うのですが。
日当たりの良い場所で、葛が花を咲かせていました。
散歩していると、猛暑に疲れた身体にやわらかい風が心地よく吹き抜けます。
そして、週末には白露に入ります。風がさわやかさを連れて来てくれるでしょうか。
辛夷の実がなっていました。かわいい色です。ここまでの観察で満足しないで、今年は中から実が出てくるところまで見納めてみたいものです。
大きな葉っぱは桐でしょうか。
桐の葉は幼木のときほど大きいそうです。座布団くらいの大きさだとか。
ただし、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」の桐は梧桐(アオギリ)です。
本家の桐だって十分に大きいけれど、初秋に落葉しないから採用されなかったのかな。豊かに揺れる大量の葉っぱに惹かれて、通り過ぎる人にへんに思われながら、しばらく見上げたことでした。
ネズミモチ。この木にはちょっとした思い出があります。
子どもたちの小学校の卒業記念に、学校へ贈呈した木なんです。
その頃の私は植物なんぞに、なんの興味もなかったので、ただただへんな名前の木を選んだもんだとしか思えませんでした。いまから思えば笑えます。実の生る常緑樹は、環境への貢献度が高いようです。
真っ赤な珊瑚樹の実にヒヨが集まっていました。秋一番に熟す実なのでしょうか。
この木なんの木ですが、もしはぜの木なら、これから秋が深まるにつれて色づいてくることでしょう。
そうなれば、サトウハチローさんの歌『小さい秋見つけた』を歌わずにはおれません。
この歌は、ハチローさんが布団に臥したまま、庭のはぜの葉っぱを見てインスピレーションを得たといわれています。
教養とは、体験の中にあるものとどこかについて書いてありました。
何かを見たり感じたりしたとき、そういえばあの時、という具合にぞろぞろ引っ張り出されてくるものを教養というらしいです。
サトウハチローさんは、幼いとき母に連れられて行った教会の風見鶏と真っ赤なはぜの葉っぱが重なったそうです。
記憶の中の深いところに、忘れがたく残っているもの。それが、自分の宝物にちがいありません。掘り出すのではなく、そっと眠らせておきましょう。浮かび上がってくるいつかのために。
だれかさんがだれかさんが
だれかさんがみつけた
ちいさい秋ちいさい秋
ちいさい秋みつけた
むかしのむかしのかざみのとりの
ぼやけたとさかにはぜのはひとつ
はぜのはあかくていりひいろ
ちいさい秋ちいさい秋
ちいさい秋みつけた